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環境問題のヒューマニスト ルネ・デュボ…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  ロックフェラー大学医学研究所教授のルネ・デュボス博士とお会いしたのは一九七三年十一月のことである。折から第四次中東戦争のあおりで、石油危機が叫ばれていた。社会が一種の狂乱状態にあるなかでの会見であったことを記憶している。
 冬の初めの、寒い日であった。すでに、博士は多忙な日程をこなされて、二日後には離日される予定であった。七十二歳の高齢では旅の疲れもあろうし、寒い夜の会見はなおさら気がかりだった。それが、杞憂であってよかった。お会いしてみると、血色もよく、きわめてお元気そうで、日本滞在を心から満喫されている様子であった。
 夫人も同行されていた。博士とは少し年齢の懸隔があるのか、若々しく、気品にあふれた方である。二人とも京都がことのほか気に入られたらしく、そこに二日間滞在して「精神においては、すっかり日本人になった」とのことであった。
 「じつは、京都に行って、私の哲学的な考えが具現されている都市だという感じをうけました」
 博士は、寛闊な手ぶりをまじえながら京都の印象を述べられた。「というのは、たしかに人間は京都の自然を変えている。しかし、自然を変える手際が、うまく自然の精神を抽出するような形になっている、そういう都市ですね。人間の適応のしかたがいい」。
 講演会などでは、東京の汚れた空を手厳しく指摘されていた。それに比べれば、京都には幾分か救いを見いだされたようだ。
2  しばらく博士の身辺の事柄についてうかがった。細菌学では世界的な権威者である。とともに環境問題にも造詣が深く、その方面の著書はいずれも反響を呼んだが、なかでも『人間であるために』は一九六九年度ピュリツァー賞に輝いている。その博士が、当時はニュヨーク郊外の小さなアパートに住まわれていること、植樹が趣味だが木が育つのを見届けるために百歳まで生きたいこと、など楽しそうに話される。
 そのころ開学してまもなかった創価大学には、強い関心を示された。私が、人間教育を主眼としていること、などをお話しすると、博士は、アメリカの大学教育について「機構があまりに物質的で、人間的環境に欠け、自分がいかに生きるかの認識を学生に与えていない」と、肩をすくめて嘆息された。
 若い人びとへのモットーをお願いした。博士は、ラプレーの言葉だといって「まず最初に何になりたいのか、何でありたいのかを明確に決めよ。そうすれば他は天より授けられるであろう」という綾言を挙げられ、「しかし、授けられた可能性のなかから正しく選択するのは、その人自身の問題です」と付言された。
 これらの言葉は、しだいに私の心のなかでまとまった形をとり、意味を帯びていった。「環境」「適応」「選択」といった語とともに、デュボス博士の思想に伏流する環境論が、さりげなく表出されていたのである。
3  博士は終始、和らいだ笑顔を見せておられる。科学者らしい研ぎすまされた英知も、その温厚な人柄に包み込まれているようである。
 「環境問題へのアプローチは、物質主義的であってはならない。人間主義的なアプローチが、まだまだ足りないと思う」と博士は話題をしだいに核心に移されていった。「環境問題の解決は、根源的には、″人間精神の不変の要求″といった視点からとらえるべきです」と。
 生物学的存在としての人間には、適応能力の臨界がある。この点をわきまえたうえで、現在の技術的環境を変えるのでなければ、逆に環境がわれわれを変えてしまうであろう。人間は、いまや責任ある選択を迫られている――これが、環境問題において博士が世界に発する根本的在問いかけである。
 たとえば、人間はたとえ海や宇宙の深淵に居住空間をつくりえても、やはり基本的には地上と同じ環境条件を自分に密着させておかなければならない。地球の新鮮な水や空気と同じ成分を供給してくれる″へその緒″のような装置でつながれていないかぎり、生存は不可能である。この人間の生物学的な本性は、太古から変わっていない。
 このように、人間の経験的過去や、生物としての本性は、遺伝子に受け継がれ、あるいは精神の深層に刻み込まれて、人間生命の内発的な要因を形づくっているという。博士の言われる″人間精神の不変の要求″とは、そのようなものをさしているようである。
 このような思想は、世界の未来像というテーマで私が質問したときにも、うかがえた。
 「共産主義、資本主義、民族主義などのイデオロギーは、これからどうなっていくであろうか、また、人類救済の道はいずれにあるのだろうか」との設問である。
 博士は「難しいが」としばらく眉根を寄せておられたが、やがて答えられた内容は、きわめて明快なものであった。「これらのすべての主義というものは、もはや創造的な力にはなりえない。その主な理由は、これらの主義が考えている人間のとらえ方が根本的に、経済的人間、政治的人間にすぎず、基本的な人間の欲求には目を向けていないということです」
 一言にしていえば″生命的な存在としての人間″を立脚点とせよ、ということだろう。博士は、さらにつづけて言われた。
 「したがって、二十一世紀にわれわれがなすべきことは、すでにふれたように、基本的な、しかも普遍的な人間精神の欲求とは何かを再発見することです。そして、その基本的、普遍的な欲求を満足させる形で、社会を組織しなおすことです」
 博士は、とくにこれまで環境問題の視点から、科学の分野に人間性の回復を主張されてきた。しかし、イデオロギーの問題にもなお″人間″を見据える発言が、印象深かった。心からの共感を込めて「私も以前から、二十一世紀は″生命の世紀″としなければならないと主張し、実践もしてまいりました」などとお話しすると、博士は温顔をほころばせて、深くうなずいておられた。

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