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日蓮大聖人・池田大作

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″ヨーロッパ文化″への熱き思い デュプ…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  一九七五年五月のある晴れた午後、私はセーヌ川左岸の学生街カルチエ・ラタンにおもむいた。
 いつも長く中部ヨーロッパの大地を領する冬は、ようやくひと月ほど前に衰え去って、パリの道々の木立も花も、とりどりの春の色彩に染められていた。
 カルチエ・ラタンの中央部を貫くサン・ミシェル大通りは、両側をカフェテラスや書店などの店並みに縁どられ、そこを学生らしい若者たちが出つ入りつしている。どこからか、徴風にのって時鐘が聞こえてくる。いつ訪れても、パリは繁華な営みに満ちている。そして、どことなく絵画めいた雰囲気がある。
 サン・ミシェル大通りからふと折れて短い街路を行くと、すぐ正面にパリ第四大学――いわゆるソルボンヌ――の建物がある。私には二度目の訪問であった。ユゴーとパスツールの大きな座像も、いくぶん踏み減らされた石事つくりの階段も、以前に見たままの光景である。数世紀前の建造になる構内は、さすがにフランス・アカデミズムの重層を思わせる。前回の訪問では、教授の方々の案内で大講堂、神学研究室、エジプト研究室など構内をひととおり見学させていただき、意見も交換した。このとき、総長秘書のクルーゼ女史より、パリ大学の歴史をうかがった。その起源は古く十二世紀にさかのぼり、ボローニャ、オックスフォードと並んで世界最古の大学ということである。
 初訪問のときの懐かしい場面をあれこれと思い浮かべながら、私は総長室に向かった。
2  「もう一度こられたことは″忠実″でよろしいと思います」
 もろ手を広げて迎えてくださったアルフオンス・デュプロン総長は、そうユーモアたっぷりに言って、再会を心から喜んでくださった。二年前の会見は短時間ではあったが、総長は熱心に日仏教育交流の在り方を説かれ、私も大いに共鳴するところがあった。そのとき、再会を約したことを、総長は記憶されていたようである。
 総長の専攻は言語学と聞いていたが、総長職についてからは宗教科を設置するなど、往時再興に力を尽くしてこられた。
 「教育問題について腹蔵なく話し合いたい」と、総長は話をきりだされた。
 私は、政治、経済の次元よりも教育面で努力することのほうが、人類にとってより大きな仕事をしていることになると思う、なによりも教育次元での英知の結集が必要である、と述ベて、総長の教育への献身に心から敬意を表した。
 「フランスでは、長く教育は政治権力に付随的でした」と総長は言われた。たしかに、フランスでは国王、国家による教育統制の歴史がつづき、さまざまな矛盾が内包されたまま近年に至っている。一九六八年の「五月革命」は、そうした中世以来の保守的な大学制度の破壊をめざした一大騒擾だった。このソルボンヌの学舎にも、学生たちの赤旗がひるがえり、警官隊との衝突が繰り返された。
 私は、このことも念頭におきながら、教授と学生とのが″断絶″について意見を求めた。
 「やはり断絶はある。しかし、断絶というより、学生と教師のあいだに交流がないといったほうがいい。この点、教育者は自身の重い責住を感ずる必要がある」
 そう前置きして、総長は次のように述べられた。
 「教育は、″よく聴く″ことが大事と思う。教育、指導するという姿勢より、まず学生の言うことをよく聴く姿勢が大切でしょう」
 あの「五月革命」は、左翼勢力による大学革命の域を超えるものだったと、私は理解している。それは、もっと広範在、現代文明のはらむ矛盾に対する反発という次元のものであった。
 「自由」を標傍するフランス社会も、じつは多くの面で官僚化、管理化が深刻化していた。教育も、役人づくりのための国家教育という側面はいなめなかったようである。そこに大衆、学生の不満があり、「五月革命」がフランス社会を根底から揺り動かすだけのパワーたりえた要因があったと考えられる。
 総長が″よく聴くこと″を強調されたのも、「教える側」「学ぶ側」の立場を超えた対話が大切であることを身にしみて経験されたからであろう。さらに私は、これよりひと月前、武漢大学、復旦大学などを訪れて中国の教育革命を視察したばかりであったので、そのことにふれながら、当時、中国で試みられていた、働きながら学ぶことについて意見をうかがった。
 「やはり頭脳の働きと、体の動きを調和させることが、健康的にも必要でしょう。それと、学生が社会に対する恩をあらわすことが大事です。自分が学べるのは社会があるからです。それを社会に還元しようというものがなくては――」
 その総長の発言は、日常生活と学習との往還作業による人間教育を唱えた牧口教育学説に一脈通ずるものがあった。けれども、それ以上に、西欧の学識者の口から″社会に対する恩″という言葉を聞いたことに、私は新鮮さを感じた。
 総長は、「人民に対する奉仕」という毛思想を踏まえて言われたのではないだろうか。あるいは、もっと広く人間としての基本に立ち返るべきだ、との思想からの発言であったのかもしれない。
 ″恩″というと、とかく封建的な臭味をもつものとして忌避されがちである。とくに儒教思想が支配者の道具にされてきたわが国では、その傾向が強い。しかし″恩″とは、本来、もっと自然な人間感情の発露であり、やはり大切にしなければならないことだと、私は考えている。自分が今こうしてここにあるのも、数多くの人びとの有形無形の支えがあってである――との感謝を忘れない生き方が大切であろうと思うのである。それが″社会に対する恩″に通ずるものと思うのである。
 互いに相通ずるものを感じつつ、私は、東洋と西洋との相互理解が必要であり、グローバルな視野に立った世界市民の育成が図られなければ、との考えを述べた。総長も同感して、言われた。
 「教育制度についても、東西の比較分析を通じて新しい方向を生み出していけるでしょう。その過程で新しい価値も発見できる。個人や、民族や、国家がそのおのおのの個性を互いに認め合いながら″良心の交流″を図りつつ、世界に、多様な素晴らしい複合体をつくることです」
 話題は、平和の問題へと発展していった。
 教育の本質的な解決なくしては、次代の向上も、人類の繁栄もないし、真実の平和はありえないだろう。加えて、平和構築への哲学、理念を考える必要がある――私はそう力説した。総長も「その点、教育者として大きな責任を感じている。″平和の教育″をめざさなければ」と深くうなずいておられた。
 私は、そのためにも東洋と西洋の文明の交流が大事になると思う、と重ねて強調した。
 「それは根本的な問題である」と、総長は全く同じ意見で、「二つの文明には固有の価値観がある。それをどう融合させ、共通項を探すか、それには人間の不信をどう解決するか、が優先されなければなりません」と言われた。その熱の籠った言葉に耳を傾けながら、私は、人間の存在に視点を合わせようとする一人のヒューマニストの姿を強く印象づけられたのである。
3  一時間ほどの会見を終えて、ソーの宿舎に戻ると、日は暮れかけて、遠くの丘陵地帯に散在する家々が青い暮靄ぼあいに包まれていた。
 私は、パリでの日程のあと、モスクワ大学での講演を予定していた。東西の民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる、民衆という底流からの交わり――西と東の人間同士の心をつなぐ「精神のシルクロード」の必要性を、私は訴えるつもりでいた。デュプロン総長との会談の一つの結論も、その点にあったようである。
 東西の文化交流を、そして″良心″のコミュニケーションを、と繰り返し語られる総長は、同時に「思想や民族性が違っても、なによりもそこに人間がいる」と心のなかで叫んでおられるようでもあった。あらゆるものを超え、人間性の根底において万人と万人を結びつけうるような何ものかを、総長も模索されていたのではなかろうか。春の日の名残の光をはらんで刻々と暮色を深めていく空を眺めながら、私は、講演の想を練った。
 デュプロン氏とは、本年(一九八一年)六月、パリで二度お会いした。その一回は、故トインビー博士との共著『生への選択』(邦名『二十一世紀への対話』)のフランス語版の出版を記念するレセプションのときである。
 二度目は、パリを発つ朝であった。そのとき、デュプロン氏は、ご自身がソルボンヌ校名誉総長になられたこと、今はイタリアのフィレンツェにあるヨーロッパ大学の教職についていること、そしてヨーロッパ大学の運営に対する構想を、真剣に語っておられた。また、私に、さまざまの意見を要請された。
 「「ヨーロッパ社会全体が危機に瀕しています」
 デュプロン氏が、そう話を切り出された。その″危機″打開のための教育センターの機能を、ヨーロッパ大学に託しているとのことである。「しかし」とデュプロン氏は嘆息をまじえて、運営が難しく、必ずしも十分な結果を得ていないと言われた。
 「ヨーロッパ各国は、歴史、文学、音楽のいずれをとっても別々の文化をもっていると考えている。ヨーロッパ大陸全体としての総合的文化はない。それをもたないといけない」と、デュプロン氏は″ヨーロッパ文化″の方向性を強調された。
 たしかに、近代ヨーロッパでは、各国ナショナリズムのうえにそれぞれの文化が築かれてきた。その意味では、デュプロン氏の指摘するように全体としての″ヨーロッパ文化″は存在しないといってよい。それは、外からみればヨーロッパという一軒の家はあっても、内からみれば独立したいくつかの部屋に仕切られているようなものである。その大きな弊害が″ヨーロッパの凋落″というような言葉であらわされる現象に出てきている。デュプロン氏が″危機″とみるのも、この点であろう。
 そして、やや皮肉ながらデュプロン氏の話によれば、ヨーロッパ大学の運営を難しくしている要因も、大学を構成するEC十か国の教育の在り方が各国各様であることからきているらしい。
 このままでは、ヨーロッパは、米、ソ、中、印のあいだで窒息して、世界の孤児になりかねないだろう――と、私は氏の″危機″意識には同意を述べた。また、現実的には、民族意識、国家意識はぬぐいがたいものがあり、ナショナリズムを否定することはできないにしても、各国それぞれに学び合いたいという、いわゆる″学際″的な動きは、いまや一つの時代の要請となっていることも事実である。それゆえに、統合的在視野を開いて互いの知識を吸収する場として、ヨーロッパ大学の先駆的な意義は決して小さくはあるまい――私は、デュプロン氏にそう所感を述べた。
 また、ヨーロッパ大学についてなにか具体的なアドバイスを、と求められたので、(1)ヨーロッパ大学の目的を内外に明確化すること(2)目的に対する理念の普遍化(3)ナショナリズムは否定することはできないにしても、ヨーロッパおよび世界の平和、文化のリーダーという誇りと教育の方向づけが、各国のリーダー養成につながるだろう(4)教授と研究生の断絶を埋めること、とくに互いに接する努力、その一環として世界の有能な学者との交流――など、感ずるままをお話しした。
 「伝統は根強いものです。新しいものの定着には、時間がかかります。一つの構想を深く具体化し、浸透させていくには三十年、五十年の展望をもってください」
 自身の来りし道を振り返りながら、私なりに励ましの言葉を送った。
 一時間半におよんだ、楽しい語らいが終わった。デュプロン氏に日本への来遊をお願いして、ご夫妻にお別れした。
 その日の午後、私はコンコルド機で、パリを発ち、ニューヨークに向かった。大西洋上を渡る機中、さまざまな思い出が胸に去来するなかに、すっかり年長の親しい友となってくださったデュプロン総長の面影があった。
 ――文化は、つくるものというよりは、生まれるものというほうが適切であろう。とあれば、ヨーロッパ統合文化の志向は、それ自体、困難な作業といわなければなるまい。しかし、いまだ道なき道も、新しい道をつくりゆこうとする者が、ひとたびは草むらのなかを強く踏みしめていかねばできないものである。時代を先取りしたデュプロン氏らの試みが評価されるときは、必ずくるにちがいない。
 教育の新しい実験に傾倒されるデュプロン氏に、私は、心のなかで声援を送った。

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