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日蓮大聖人・池田大作

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西欧きつての日本通ジャーナリスト ロベ…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  「私には″日本の母″がいるのです」
 ロベール・ギラン氏の目もとに、ふと懐かしげな笑みが浮かんだ。私と二度目に会ったときのことである。
 ギラン氏は一九三八年、アバス通信(のちのAFP)特派員として来日し、八年間滞在した。さらに五八年からの四年間は「ル・モンド」紙記者として再来日している。この″母″は、滞日期間中、東京のギラン氏宅で料理人として働き″おクニさん″と呼ばれていたそうである。
 「おクニさんは、あの外国人に対する激しい軍部弾圧のなかで、いつも私を温かく支えてくれたのです。まるで、息子に対する母親のようだつた」――。
 戦時中、一億総スパイという環境だった。ギラン氏は、特高警察に尾行され、あるいは事務所を捜索されたりして、写真取材やメモをとることも危険でできなかった。自宅にも憲兵がしつこくやってきては、おクニさんから秘密情報を探ろうとするのだった。しかし、彼女は、断固としてギラン氏を守った。氏の二人の子供たちも、よくおクニさんになついていたという。
2  ギラン氏は、最初の八年間の滞日生活を終えてパリに帰ると、″私の大好きなおクニさん″という長い手紙を彼女に出して、感謝を捧げたという。再来日した氏の家に働くおクニさんは、そのころ創価学会員となっている。
 「そのおクこさんの純真な信仰の姿を通して、私は学会を理解するようになったのです」と、ギラン氏は語ってくれた。
 おクニさんは、とのとき八十七歳であった。私は、この市井の一老婦人の振る舞いに感動した。思いがけず、日仏間に友情の灯をともしていた尊い一庶民がいたのである。
 「貴女の尊敬するロベール・ギラン先生と楽しく会見しました。昔の懐かしいお話もお聞きしました。いついつまでもお達者で……」
 私は自分の著書の扉にこうしたためて、贈らせていただくことにした。そして心から嬉しそうに語るギラン氏の様子に、温かい好感をおぼえた。
3  ギラン氏と、私は二回お会いしている。最初は一九六七年六月。二度目は、それから七年後の一九七四年十二月のことであった。
 「インタビューには、どのくらい時間をお願いできるのでしょうか」
 折り目正しく初めての取材を切り出してこられたときの、丁寧な口調が思い起こされる。会った瞬間に、私は、人間的な好感を強く印象づけられていた。名ジャーナリストらしい俊敏さを漂わせながらも、同時に親しげで、庶民的な肌合いを感じさせるものがある。腰が低く、円満な人柄がうかがえた。ジャーナリストにときにありがちな、翳りのある皮肉な目や表情を見せず、話しぶりにも針を含んだようなところがない。
 ――ジャーナリストとして自分のモットーとしていることは何ですか。
 ――公平で、独立した精神をもつこと。政府の表面的な説明や、一般民衆の幻想を超越して現実を見るすべを知っていること。そして、その現実を大胆に公表すること……。
 西欧きつての極東、日本通ジャーナリストとして知られるギラン氏は、私の質問に、こう答えている。この言葉のなかに、ギラン氏一流のジャーナリスト魂が躍如としている。
 一九五四年、ディエンビエンフー。インドシナ戦争における天王山の戦いで、フランス本国政府はこの城塞の難攻不落を誇示し、現地司令官はフランス軍の勝利を記者団に言い切った。しかし、ギラン記者は「ル・モンド」紙に、敗北の可能性を予見する記事を送り、事実、そのとおりになった。それは官製発表をうのみにせず、兵士たちのなまの声に耳をすまし、自ら納得のいくまで分析を徹底したからであった。
 その冷徹在眼差しをもって観察した日本、およびアジアのニュースを、ざっと半世紀にわたって、ギラン氏はフランスに送りつづけた。日中戦争を上海特派員として目撃したのを皮切りに、東南アジアの重大事件のほとんどを現場で体験した。毛沢東軍の上海入城、朝鮮戦争、金門島の危機、バンドン会議……。しかし、とりわけ日本との関わりが長く、思い出も深いようである。

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