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日蓮大聖人・池田大作

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″総体革命″を語る″インドの良心″ J…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  私の手元に一冊の本がある。
 『獄中日記』(Prison Diary)――。″インドの良心″と呼ばれるジャヤ・プラカシ・ナラヤン氏が、一九七五年六月から十月まで、インディラ・ガンジー政権の非常事態宣言下で投獄されていたあいだの、さまざまな思いが綴られている。
 この本は一九七九年二月十一日、ビハール州パトナの地に氏を訪れたさい、丁寧にサインして贈ってくれたものだ。百数十ページの小冊子で、装傾も簡素であり、この老ガンジー主義者の人品をしのばせている。
2  その日、私ども訪印団一行は、ニューデリーのパラム空港を後に、機窓はるかに白雪に輝くヒマラヤの峰々を眺めながら、ガンジス川中流の町パトナへ向かった。途中、ラクノウ空港に立ち寄り、さらに小一時間ほど飛んで機が高度を下げはじめると、視界いっぱいに広がる緑の大地に、家々の茶色い屋根やクリーム色の壁が姿を現した。その昔″花の都″――パータリプトラーと称されたビハール州の州都パトナは、柔らかな陽光に包まれて落ち着いたたたずまいを見せていた。
 近代都市ニューデリーを発ってきたばかりの者には、パトナの街には、ほっとさせるようなのどかさが漂っていた。白牛が背中にカラスを遊ばせながら道端の草を食む。ワラをうずたかく積んだ二頭立ての牛車が、鈴の音も涼やかに行く。道行く女性のサリー姿が、ニューデリーで見たよりいっそう色彩鮮やかである。町とはいっても、田園の空気と香りがある。
 日本の初夏を思わせる日差しのなかを、私はナラヤン氏の私邸に向かった。土壁の家が立ち並ぶ路地裏の入りくんだ道をしばらく行き、氏の白い石造りの家に着いたのは、午後四時ちょっと前であった。二階に上がると廊下の突き当たりの肘掛け椅子にナラヤン氏が待っていた。大輪の花のレイを持って、にこやかな笑顔で迎えてくれた。その前に、秘書や随行者のために数脚の椅子が並べられている。すぐ脇に粗末な布地のカーテンが下がり、その向こうにベッドがあるらしい。持病の腎臓疾患が悪化して週に二、三回は透析しているとも聞いていた。応接室がないらしかったが、氏の質素な生活ぶりが直に伝わってくるような対談場所がかえって好ましかった。侍医もそばにつききりである。
 茶色のガウンを着ていた。一語一語かみしめるような話しぶりである。その低い声は、七十六歳の高齢と、その闘病生活を感じさせた。しかし長年の革命闘争で鍛えられた頭脳は鋭く、確かであった。銀ぶちの眼鏡の奥に柔和な眼差しをたたえながら、氏は静かに″真実″を語った。
 話題は縦横に広がったガンジーの高弟であった氏は、ガンジーとの出会いを懐かしげに語った。非暴力主義抵抗の理念も語りつづけた。
3  氏が政党政治に見切りをつけて政界から身を引いてから二十数年を経ていたが、社会運動家としての名声は″インドの良心″と言われるまでに広く民衆に浸透している。
 氏のモットーを尋ねたとき、今日までの風雪に満ちた思想遍歴を氏は簡略に語った。そして、
 「今では、やはりマハトマ・ガンジーの思想が、私の生活信条です」
 と答えた。ここでもインド指導層の精神的支柱である、ガンジーの巨大な影像があった。
 ナラヤン氏のイデオロギー遍歴は、民族独立運動に始まり、共産主義による暴力革命、ついで民主社会主義へと移り、最後にガンジーの高弟ビノバ・バーべによって創始されたボウダン運動(土地の自発的な提供を促し、究極的には農村を村民全体で共有することを目的とする)に共鳴していった。
 そのなかにガンジー主義の基本路線であるサルボウダヤ運動(すべての階層の人びとの向上)の具体的な実践法を見いだしたのである。
 暴力革命の思想をとってガンジーにひとたびは背を向けた彼も、結局はインドの精神的大地をなすガンジーのふところに、再び帰った。そして、イデオロギーの遍歴はあっても、彼の追求した目標――インド全民衆階層の真の平等化と幸福――に変わりはなかったと思うのである。
 彼は、さらに進んで″総体革命(トータル・レボリューション)″の概念を打ち出している。それは、ガンジー主義を社会変革への実践法にまで昇華させようとする彼なりの思想であるように思えた。

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