Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間のための社会主義を ジル・マルチネ…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  「私の父はロワールの城に生まれました」
 「ほう――王さまですか」
 「というのは、祖父がロワールの庭師だったからです」
 「なるほど……」
 私は笑った。ご本人も快活そうに笑っていた。
 ジル・マルチネ氏。フランス社会党きつての理論家として著名なこの人物と、初めて会ったのは一九七四年三月、東京であった。知性的な彫りの深い目鼻立ちに加えて精悍さが満面に漂い、学究であると同時に粘り強い行動力を秘めた人物であることは容易にうかがわれた。
 よく語り、よく耳を傾ける。その物腰からはいかめしい理論のよろいかぶとは感じられず、むしろ着流しのような気安ささえあって、庶民的な肌合いである。時折見せる屈託のない笑顔が、好人物のなによりの証拠と思えた。
 三時間におよんだ会談のなかで、話題は縦横に広がったが、とくに氏の思想行動の来歴が興味深かった。
 「私は私なりに理想社会をめざした。懸命に努力してみたが報いられなかった……」
 氏はどこか遠くを眺めるように語りはじめた。一九三八年、二十二歳のとき、モスクワの粛清裁判に失望してフランス共産党を離れた思い出である。
 理想と現実の相克を目の前にして、一個の若く純粋な魂は煩悶しぬいたことだろう。しかし、それは何物かを産み出したにちがいない陣痛の苦しみでもあったはずである。
 私はそれを確かめたかった。まず、学生時代の思い出をたずねてみた。
 「私の学生時代は、ヨーロッパが非常に不安定な状態でした。そんなときに私は、青年共産党員になった。一九三〇年代の人民戦線時代は、学生共産主義同盟のパリ地区の書記までやりました。しかし、最初に申し上げたとおり、理想とするものが、ことごとく現実にゆがめられて、非常な苦痛と倦怠感に襲われました」
 悩みに満ちた青春の名残をとむらうように、氏はともども語りつづけた。それにしても粛清裁判に反対して党を去った事実――。″必要こそ掟″とばかりに体制、イデオロギーを救うことを人間の生命より大事にした者たちへの訣別。その進退ぶりに、ふと私はフランス人を感じた。「″人間″は絶対に譲れない一線だ」と叫ぶフランス人を、である。
 加えて人民戦線の崩壊――台頭するファシズムに向かって手を握り合ったはずの国際統一戦線が、同じ仲間によって破壊された。
 「私の人生の新しい方向を模索する段階において、根本的な矛盾があったのです」
 多くの社会主義者と同じように味わったであろう身を破られるような挫折感を、氏はそう表現した。
 「情勢が不利になったことによって仲間が転向したこと、政党の内部に間違いがあったこと、政治的組織の内部に行き詰まりを呈したこと、こうした現実に対処するビジョンがはっきりつかめなかった。現実と理想の二重構造に割り切れぬ矛盾、それはつまるところ科学的イデオロギーに矛盾があったと気づいたのです」
 現実を指導できない理論は切り捨てる――極言すればマルチネ氏はそう語っているのだ。そこに合理的な思考に立つフランス人がまたも顔をのぞかせていると思えた。私は質問をつづけた。
 「そういう主義主張の挫折、人生の敗北のときに、どのように決意すべきと考えますか」
 背後の窓明かりがつくる陰影のなかで、氏の目は、いっそう理知的な光をたたえている。
 「私の場合もそうでしたが、やはりアクシオン(行動)をもって現在の社会に山積した諸問題の解決にあたるべきでしょう。行動に参加し流れを変えていくことが大切です」
 挫折しても″行動″は捨てない。矛盾に対抗する″実践″をつづけねば社会は変わらない――行動を重視するのはフランス革命以来の伝統とはいえまいか。
 マルチネ氏の来歴は、いわばこのフランス人の伝統を一貫して踏みはずしていない。第二次大戦中は、ドイツの占領下、レジスタンス運動に挺身した。
 戦後はフランス通信(AFP)編集長を務め、一九五〇年には週刊誌「ル・オプセルヴァトゥール」を創刊し、その後身「ル・ヌーベル・オプセルヴァトゥール」誌の責任者として健筆を振るった。
 また一九六〇年には統一社会党の創立に加わり、一九七一年からは新発足した社会党の中央執行委員のポストにあって、イデオロギー問題の中心者として活躍している。
 思うに、このような実践主義、行動主義を包み込めるイデオロギーは、ヨーロッパにおいてはマルキシズムしかなかった。他は押しなべて観念論の範疇を出まい。ヨーロッパの知識人にマルキシズムに流れた人が多いのはそのためであろう。共産党を離れたマルチネ氏もまた、社会主義者の道そのものから去ることはなかった。
2  私は尋ねられるままに、仏法の理念に包み込まれた創価学会の実践運動をさまざまに語った。そうした後に、五十八歳の氏にこんな問いを発してみた。
 「もし未来に新しい人生があったとしたら、何をとりますか」
 氏はやや考えてから、再び屈託のない笑顔になって答えた。
 「もし人生のやり直しができるとすれば、もっと勉強して、自分のための戦いの時間をもっともちたいと思う。今までは、あまりにも社会主義、共産主義のための実践に時間をかけすぎた。社会主義ではもはや改革はできない。もっともっと勉強したほうがよかったと思っております」
 なにか社会主義の限界をはっきりと見極めたといえるような率直な吐露が思いがけなかった。同時に、限界を知りつつなお″新しい社会主義″の道を探求してやまない人生態度を十二分に汲みとれる言葉であった。
 対談には夫人も同席していた。夫人の父はムッソリーニの時代、イタリアで労働組合の書記長として活躍していたが、レジスタンス運動に参加し、無残にも処刑されたと伺った。それは、私の胸に深く悲しく焼きついている。
3  翌年(一九七五年)五月、パリを訪れた折にマルチネ氏と再会した
 場所は十六区ブランドラン大通りにある氏のアパルトマンであった。道一つ向こうに広大なプーローニュの森があり、その新緑の柵を通り抜けたそよ風が、私たちにもかすかに木の香を運んでいた。
 このとき、氏は社会党が第一党になればキリスト教の人たちを、こぞって迎え入れるだろうと語った。「社会党はキリスト教を包含しようとしている」とも言い切った。私には、フランスの社会主義が、幅広い階層の人びとを吸収し新しい流れをつくろうとしている方向性が感じられた。
 「指導者の第一の要件は?」の私の問いに、「明快さ」を一言のもとに挙げていた氏であるが、話しぶりも明快であった。
 もう一つ社会主義の″新しい道″を支える柱として、氏は「自主管理」の思想を強調した。体制、イデオロギーに縛られた社会主義のもとでは、悪くすると資本主義よりなお強く人間の主体性、創造性を奪いかねない。人間のための社会主義でなければならない|「自主管理」は、そういう考え方を土壌としている。
 話題はさらに広がっていった。
 「これから文明の質的形態が変わっていくと、″清貧″がが新しい価値をもってくるでしょう」
 「進歩した社会においては″量″だけでなく″質″求められる。そういう人間の欲求に応えうる思想なり運動が必要でしょう」
 人間精神の″質″の高さを尊ぶそれらの所説に耳を傾けている私は、マルチネ氏らの追求する″新しい社会主義″の底流には、伝統的なフランス・ヒューマニズムの青々とした水脈が流れ通っているのだと考えざるをえなかった。

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