Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東洋商業の二人の先生  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  一九四五年八月――。敗戦の日を境に、日本の社会は一変した。
2  神道主義による厳しい精神訓練も、虚しく消え去った。私はすべての圧迫から解放された自分を、どうすることもできなかった。
 私の心には、向学心らしいものが、芽をふくらませてきていた。ともかく、何かを読みたかった。新しい学問にふれてみたくなった。
 少々体を痛めていたが、友人の勧めもあって、翌月から、神田・三崎町にある東洋商業の夜間部二年生に編入して通うことになった。
 国電・水道橋駅近くにある学校である。神田一帯は、廃墟の町のように見えた。そのなかで、東洋商業は焼け残っていたらしい。
 しかし、教室は、破れた窓ガラス、粗末な椅子、電気も制限されて、薄暗い裸電球であった。折からの物資不足で、質素そのものであったといってよい。冬になると、寒気が破れ窓から直に浸透してきて、体の芯まで冷え切ってしまうのである。
 そんな荒んだ教室にも、なにかしら希望に満ちた新しい息吹があった。若き四、五十人ほどの級友たちの、真剣に輝く瞳は、教師に、黒板に、注がれていた。
3  夜学生にとっていちばんの勉強場所は、往復の電車の中である。殺人的な満員電車の中で、私はよく本を取り出して読んだ。
 授業が済んで、京浜急行・梅屋敷駅に着くと、時刻は九時を回っている。それから森ケ崎にあったわが家への道は、三、四十分もかかったであろう――疲労感に襲われるのが常だった。だから、正直なところ、わが家に着くと、勉強どころのさわぎではない。あすのために休むのが精いっぱいであった。
 物資不足のさなか、老いたる母親が、特別に「うどん」を温めて待っていてくれたり、「芋」や「すいとん」を用意していてくれたことは、いまもって忘れることができない。
 まだ海苔屋だったわが家は、夜、休むのが早い。しかし、母親だけは、いつも起きて待っていてくれたのである。「疲れるだろうね……疲れるだろうね……」と言うだけだった。
 当時、私は胸を患っていたから、疲れやすかったのである。無理を承知での夜学通いであったから、疲れ過ぎて学校を休まねばならないことも多かった。
 授業を終えれば、先生も生徒も、あすの仕事が待っているのであろう、忙しく家路に向かっていた。
 私には良い友だちが幾人もできた。ただ、先生方と個人的に話し合うような機会は、お互いに繁多なため、もつことが少なかった。それでもいまだに印象深く思い起こす先生が二人いる。

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