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日蓮大聖人・池田大作

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蓄積された風格 コスイギン首相  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  重量感のある部屋のドアを、案内の人が開けた。クレムリンの一室である。広々とした部屋の奥には執務机があり、コスイギン首相がいた。首相は、スーッと滑るような足取りで歩いてきた。私もそのまま歩み寄り、部屋の中央で握手を交わした。顎を引き、目でうなずくようにして挨拶をした首相は、どっしりとした会議用の長方形のテーブルへ手を差し伸べ、座るようにとうながした。
 初めてお会いしたのは、昭和四十九年の秋で、第一回訪ソの折である。翌年の春、二度目の訪ソをしたが、そのときもお会いした。場所は同じ首相執務室で、私ども一行と記念撮影をしたものである。二度の訪ソは、文化、教育の交流が目的であった。
2  相互信頼といっても、相互理解に始まる。互いにありのままを知り合う――この当たり前のことが、今ほど重要な時代はないと思う。立場の違いはあっても、人間同士が腹を割って、粘り強い対話をつ-つけていくならば、そこから相互理解への確かな手応えが生まれてくるものだ。その人間性の陽光の前には、国威や利害などの分厚い氷壁も、いつかは溶解していくであろうと、私は信じている。そのためにも、今後の国家関係は、政府間関係にとどまらず、広く民間レベルまでも包み込んだ、重層的な人間相互の絆でなければならない。
 前後二回の会談で、私がとくに強調したのは、この一点であり、率直にお話しした。
 日本人はソ連に親近感をもっていない。ロシア文学や民謡には親しんでいるが、ソ連はなにか″恐い国″との印象がある。政治や経済の分野における交流だけで真の友好はありえない。したがって、親ソ派と称される方々だけとの交流は過去のものとして、もっと幅広い文化交流をより活発にしていかなければならないと思う――大要、こうした内容である。
 コスイギン首相は、しきりにうなずきつつ「賛成です」と一言述べた。かなり無遠慮な私の発言ではあったが、首相は″聴く耳″をもたれた方である。これは指導者としての要件でもあろう。まず率直に聴き、同意できるものは受け入れるという心の容量を、大きくもっていると拝見した。
3  私は言葉をついで、第二次大戦におけるレニングラードのことに触れた。彼の地はナチの軍隊の九百日におよぶ封鎖に見事に耐え抜いたのだが、その間、百万人の尊い市民の犠牲をみている。ほとんどは餓死であった。これは人類の戦争の悲劇のなかでも、他に類例をみないものといってよい。
 「日本人は、もっとソ連のことを知らなければなりません」――平和、それは戦争の幕開の、おぼつかないものかもしれない。しかし、ソ連も悲惨な戦争体験のうえに現在があがなわれたのだ、ということを私は言いたかったのである。
 首相は「レニングラード防衛戦のとき、私は彼の地にいました」と振り返っていた。感情を表情に出さず、常に冷静である。議論においても整然と筋道をたてて話をする首相だが、このときばかりは、グレーの瞳に感慨込めた追憶の色が浮かんだ。おそらく硝煙のくすぶるなかで、数多くの悲惨を見たにちがいない。それだけに平和を思う一念も大なることであろう。
 三十四歳でレニングラードの市長を務めたほどの手腕をもち、三十六歳で連邦の副首相になっている。スターリン、フルシチョフと数々の浮沈を見つつ、国家建設の経歴を積み重ねてきた氏である。いぶし銀のような風格と、どこか岩のような落ち着きをもっておられるのも当然であろうか。七十歳を越えて、なお壮んな意気も持ち合わせておられた。

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