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日蓮大聖人・池田大作

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写真家三木淳氏  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  初めてお会いしたのは、昭和三十五、六年ごろ、真夏の日であった
 人間世界の雑踏を凝視しつづけてきたとは思えないほど柔らかい眼差しが、眼鏡の奥から覗き込んでいた。それが、なによりも人柄をよく物語っていた。投げかけられる質問は筋道がたっていて、知性派であり、理論家らしい感じを一層きわだたせるものだったが、その言葉の端々に、なんともいえない純真無垢な童心がうかがえるのだった。
 邪心のない方だな――私は、そう直感した。私も誠心誠意、質問にお答えしたつもりである。そうやって話を交わしているうちに、私はその人柄に、すっかり好意をもってしまった。
 三木淳さん写真一筋に四十年。私が三木さんを知って、もう十幾年かになるわけである。
 そして、いつお会いしても、変わらない人である。会えば、氏の話題はそれからそれへと広がって、なかなか弁舌は止まらない。ユーモアがあり、たまにべらんめえ調になられ、時折、辛辣な言葉の芥子もきかせた、楽しい話しぶりである。そんな飾らない人柄のなかに、ものごとの奥に秘められたものを見極め、ひとたび見いだした価値あるものには最後まで自分を賭けていく、というような気骨が腰を据えているのを感じさせる。人間として生きるベき筋道をわきまえておられる人といってよいだろう。
 慶大を卒業すると貿易会社に就職したが、プロ写真家の夢を追って退職した。それも戦後まもなく、人びとが食うや食わずの時代で、今日のような写真文化など予測もつかないころのことである。
2  そういう時代環境のなかでカメラに一生を賭けようなどというのは、ただ一途な青春の情熱がそうさせたのだろう。死に物狂いで仕事に取り組んだ。そして「ライフ社のカメラマンになるんだ」と宣言して、とうとうその至難の桂冠をかちえたという経歴からしでも、大変な努力家であろう。日本の報道写真界の草分けであり、国際的なフォト・ジャーナリストでもあられる。
 そういう写真界の大御所的な存在でありながら、三木さんの肌合いは非常に庶民的である。決して毀誉褒貶にとらわれない。だから、相手が著名人であろうと平凡な一庶民であろうと、相対し物を言う態度に少しも差別がない。そして、言うべきことはきちんと言いきるのである。
 私どもの機関紙のカメラマンたちも夜半までお宅にうかがったりして随分お世話になってきたが、暗室なども質素で、コンクリートの粗末な流しをタワシでゴシゴシと洗っておられたらしい。また機械をじつに大切に保存される姿に接し、彼らも大いに勉強するところがあったという。それらは木村伊兵衛、土門拳といった、三木さんが兄事した人びとの伝統を受け継いでおられるのではないだろうか。
3  また、まれにみる活動家である。三木さんは「写真家はトビ職人のようであらねばならない」という言葉を好んでおられるようだが、実際、お見かけする取材態度は若々しい敏捷さにあふれ、被写体と真っ向から格闘するような気迫がある。といって、その動き方は決して大仰でなく、むしろ軽快かつ端正でさえある。仕事の姿勢と同じく、何事にも真剣に考え、取り組む方である。あるとき「好きな道だからこそ、いろんな時を耐えられたのです」と言われていたが、厳しいプロの世界の試練をくぐってこそ、今日のすべてを身につけられたのだろうと思う。
 ポートレートを撮ってくださるというので、ある年の年末にお会いした。年ごとに髪の白さが目立ったが、若さに衰えはみられない。ご夫妻そろって歓談する機会があったが、私にはいつも心待ちな楽しいひとときでもあった。

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