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九億の民の「機関車」 鄧小平副首相  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  今、力強い一台の「機関車」が、「大きな近代中国」を作ろうと、必死に働いている。九億の未来のために、そのすべてをかけて――。
 この小さな機関車は、運が強い。不死鳥とも称される。中国の鄧小平副首相である。
 文化大革命の嵐のなかで、政治生命が断たれたと思われてから六年四か月――北京で催されたカンボジアのシアヌーク殿下歓迎宴に、鄧氏はとつじょ姿を現した。鄧副首相復活のニュースが流れたとき、世界は驚いた。
 私が鄧小平副首相に初めて会ったのは、その翌年の昭和四十九年十二月であった。この年の四月、国連資源総会に出席して「三つの世界論」を展開した鄧副首相の国際舞台への登場は、劇的であった。十一月には、訪中したキッシンジャー米国務長官と会見するなど、中国を代表しての活躍は、氏の担う役割の重さを内外に強く印象づけた。
2  その日の朝、私は、宿舎の北京飯庖を、車で出て、人民大会堂へ向かった。東長安街を走り、五分ぐらい行くと、高さ四十六・五メートルの堂々たる建物が見えてくる。東西二百六メートル、南北三百三十六メートルの広大な敷地に、この中国の国会議事堂ともいうべき人民大会堂が立っていた。
 十時を少しまわったころ、広い石段を上がっていくと、玄関に、寥承志りょうしょうし氏ら中日友好協会の方々や北京大学の関係者らとともに、鄧副首相は立っておられた。黒っぽい中山服を着た鄧副首相は、小柄で、七十歳を越えておられたのに、若々しかった。
3  私たちの対話は、北京大学の訪問のことから始まった。このときの訪中は、北京大学に日本語書籍を寄贈したことに対し、大学がさまざまな配慮で、私どもを迎えてくださったのであった。贈書式には、寥承志会長夫妻が大学にこられ、一千人の学生、教職員が歓迎の集いを開いてくださった。
 鄧副首相は、北京大学への贈書に謝意を表され、さらに、私が、第一回の訪中後に記した紀行文に対しても意見を述べられた。低い声である。淡々とした口調で話された。「前回、帰国されてから、ずいぶんいろいろと中国人民を励ます言葉を書いていただきました」。
 そして、笑いながら「なかには、ほめ過ぎたところもあります」と語っておられた。「今は、中国は立ち遅れている」と述べ、そのことは、逆に「発展の前途があり、希望があるということです」と話されていた。
 頭の回転の早い方である。鄧副首相を評して″カミソリ″という。その鋭い分析力、抜群の記憶力、そして行動力が伝えられていたが、とくに印象的なのは、その話の明快さと率直さであった。思ったことをずばりと言つてのける骨っぽさは、快い。
 この日の話のなかで、毛沢東主席と周恩来前首相の健康のことについて、鄧小平副首相は語っておられた。
 毛主席については「高齢で何日間かすると満八十一歳を迎えるが、健康状態は非常に良い」と言われ、「毛主席の記憶力がいいのには、私たちははるかにおよばない」と感嘆されていた。
 鄧副首相自身、″百科事典″とニックネームを付けられるほど記憶力の良い人であるが、毛主席にはとてもかなわないということであった。さらに「毛主席は、毎日、本を読んでいる」と言われていた。
 「水泳は無理でしょう」
 私が聞くと、「ときには、プールへ行きますが、揚子江は渡りません」との返事が返ってきた。このユーモアにあふれた言葉に、森閑とした広い人民大会堂の室内が一瞬なごんだ。

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