Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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前米国務長官 キッシンジャー博士  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  その日、ワシントンは、朝から小雪がちらついていた。
 五十年一月、私は、ポトマック川が近くを流れる米国務省の建物へ向かっていた。七階にある国務長官の執務室で、へンリー・A・キッシンジャー博士は、待っていてくださった。ドアを開けると、そこに立ってニコニコと笑いかけ、いかにも心待ちしていたというふうであった。
 「記念撮影をしましょう」と長官は言って、楽しげにカメラに向かう。それから私を窓ぎわのソファに導き、長官も隣の椅子に座ると、部屋には通訳の方と私たちの三人だけとなった。
 昼下がりとはいえ、窓の光は薄いレースのカーテンにさえぎられ、室内はやや暗かった。博士と私とのあいだにはアラベスク模様の電気スタンドが立っており、その薄明かりが私たちを近づけあっていた。私たちはすぐに時下の国際情勢について話題に入っていったが、そのとき、長官の表情が打って変わって真剣さをおびた。
2  「あすの朝刊が何を言うかというよりも、十年後に人びとがどう思うかである」として、現実を見すえながら、未来へ舵を取る博士の精悍な目は、静かに燃えていた。その仕事ぶりがあまりにも強烈だという人に対しては「強烈に取り組む価値のないような仕事はやる気になれない」と自分の信ずる道をエネルギッシュに切り開いていった。もちろん、仕事に賭けた人物である。風当たりも強かった。しかし、批判者一人につき擁護者も一ダースは超えたといわれている。
 観念論を排し、まず現場に飛び込んでいった。そして、すべてにおいて、完壁さを求めるといったやり方はとらなかった。できるところから、一つ一つ現実をふまえて、固めていく行き方であるように思う。
 ジョン・F・ケネディが″理想″から″現実″へ入ったとするならば、キッシンジャー博士は″現実″から″理想″に迫ろうとした、といえるのではなかろうか。氏は卓越した学者である。それでありながら、大変な現実主義者である。
 そういう氏の行き方は、私たちの話が中東問題、米中関係、SALT(米ソ戦略兵器制限交渉)などに次々とおよぶにつれて、ますます鮮明に浮かび上がってくるのだった。私は、かねてからいだいていた私の″キッシンジャー観″が一つ一つ確認されていく思いがした。
 いわゆる形式的な礼儀作法というものなどは抜きにして、ありのまま、タンクみたいにぶつかるというか、それであって、非常に合理的な、鋭い、急所をはずさない語り方。そして、きわめて信義を重んずる、それも徹底して……。
 新鮮なイマジネーションに富んだ外交的布石の連続を目の当たりにし、まさに「外交が行く」といったふうの世界を駆ける姿をみると、どうしてもその華麗な離れ技に視線がいきがちである。しかし、キッシンジャー外交を支えたものは、人間キッシンジャーが五体に満々と秘める徹底した誠意の芯というものにもあることを見失ってはならない。鉄のごとくというか、鋼のごとくというか、強固な人間の芯がある。それでいて、なんともいえないユーモアというか、人をほっとさせるところがある。これは、氏の徳になっている。
 世界を揺り動かしたあのヒマラヤ越えの北京入りに端を発し、キッシンジャー氏と周恩来前総理とは、とても昵懇であったようだ。互いに自分にないものを相手に見いだし、双方、大いに得るところがあったにちがいない。キッシンジャー博士は、周総理の東洋の英知、行き届いた配慮、寛大さなどに魅了され、周総理はキッシンジャー博士の鋭い、合理的な知性に鍛えられたアメリカの洗練された精神に引かれたのであろうか。
3  話の途中、書類が差し入れられた。キッシンジャー長官は、それに素早く目を通して、係官に返した。それから、電話が一本入った。通常、このような会見中に、電話には応じないそうだが、とのときは、なにか特別に重要な問題であったようだ。長官は、手短に指示を与えて、電話を切った。
 過去、現在、未来へと向かう歴史の流れと、刻々と変化してやまない現実の事象との交差するところに立って、絶えず緊張していなければならない日々であったであろう。一つの判断をし決定を下す場合、限られた時間という要素が大きくのしかかってくる。時間的な制限のない余裕のある学者としての研究生活とは違って、二十世紀の大国アメリカの国務長官として、その職務を遂行していくには、言いあらわし難い辛労があったことであろう。世界政治の重要なポイントを握る立場にあって、まさに神経を研ぎすまし、責任の重圧を双肩に担って全力投球している姿が、ひしひしと感じられたのである。

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