Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ある小さな印刷所の社長  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  新橋と水道橋――この二つの駅は、私の夜学生時代の思い出を刻んでいる。
 終戦後の一時期、私は新橋のある印刷会社に勤めていた。吉川英治も、かつては印刷会社に勤めていたことを胸にして、その職場を誇りとしていた。仕事を終えると、夕刻、急いで水道橋の駅へ向かった。東洋商業(現、東洋高校)は、その駅のそばである。そんな懐かしい日々を振り返ると、きまって一人の小柄で律義な社長を思い出すのである。
 私の勤めていた印刷会社は社名を昭文堂といい、小さな、家内工業的な雰囲気をもっていた。そこの社長が黒部武男さんである。私が終戦前お世話になった鉄工所で知り合った方の紹介で同鉄工所の友人二人とともに、二十一年から勤めるようになった。一挙に三人の雇用となると大変であったろうが、黒部さんのことだから、頼まれると引き受けずにおられなかったのであろう。それに私にとっては、夜学に通う水道橋への途中に勤務先があることは、願つでもないことだった。当時、兄たちはまだ戦地から帰っておらず、夜学しか勉学の道がなかったのである。
 勤務時聞は夕方の五時までと、いちおう決めていただいた。だが町の印刷所である。納期に間に合わすため残業する人もいる。しかし、黒部さんはこう言った。「仕事の段取りがついたら、学校へ行きなさい。なあに、遠慮はいらないよ」――。この言葉が、どれほど有り難かったことか。それはほとんど口ぐせのようであった。たまには、ご自身の本などもくださった。
 黒部さんは、山梨県のご出身で、高等小学校を卒業後、上京して印刷会社で働いた。二十七歳で結婚され、三十二歳の昭和十四年に独立されたという。ご自身をあまり語らない方だったが、折々の姿から、努力と信用で印刷会社をもつようになった経緯をしのぶことができる。
 印刷所の朝は早い。私は六時半には森ケ崎にあった自宅を出なければならなかった。終戦直後の混乱期を、まだ抜け出していないころである。新橋の駅を降りると、浮浪者が一日の始まりであるかのように、あてどなく行き来していた。駅のガードに沿って闇市があり、早くも賑々しきを見せている。
 NHKのあった愛宕山のほうへ歩き、会社へ着くと、黒部さんはきまっててきぱきと仕事にかかっていた。挨拶を交わすと、手を休め、目でうなずく。後々まで黒部さんは、この朝の挨拶が印象に残っていると話しておられた。
 私の仕事は営業であり、たまに現場にも入った。黒部さんは、お得意先と接するときは、常にきちんと両足をそろえ礼節をもって挨拶された。電話の前でも頭を下げるような人柄の持ち主である。都内を自転車で回る。学校関係の印刷物も受注した。伝票とか申請書といった、いわゆる″ハモノ″の注文をうけ、割り付けをし、校正も行った。のちに雑誌の編集にたずさわるようになったが、正確を期すという点で、このときの経験が大いに助かったものである。
 まだ結核が十分に治りきっていなかったので、自転車で坂道を上るのは、体にこたえた。夕方になると微熱が出て、体中が汗ばむ。それでも印刷所独特の匂いのなかに帰り、機械の単調な音の繰り返しを耳にすると、なぜか心が和んだ。
 「休んだほうがよいのでは……」黒部さんは、寡黙の人であったが、従業員の動向には本当に心を配られた。ときにサツマイモなどを差し入れてくださったことは、今でも忘れられない。
 当時、黒部さんは、まだ四十代の働き盛り、いくぶん浅黒い顔が、甲府商人らしい粘り強さを物語っていた。戦時中、強制疎開にあったり、企業整備の名目で、一時中断を余儀なくされたという。そんな浮沈をものともせず、ひたすら仕事の鬼として取り組んだ人といってよい。薄暗い電球の下で働く黒部さんの背には、自分なりの生き方を、自分で満足のいくように歩んできた強さがあった。資金繰りや紙の確保といった苦労も、従業員には感じさせずに、黙々と、印刷業がまるで天職であるかのように打ち込んでいた姿は、心に焼き付いて離れない。
 体を痛めて、しばらく静養するために、退社することになったときも、真剣に引きとめられ、大事にしてくださった。
 「病気なんだから、休んだほうがいい。また元気になったら、いつでもいらっしゃい」
 人の好い黒部さんの、こう言われたときの大きな目が忘れられない。わずか一年半の短い期間であったが、私は十代の後半に得難いものを勉強させていただいたような気がする。なによりも黒部さんはじめ、同僚の方々の応援があったればこそ、夜学に通うこともでき、苦労しながらも必死に頑張れたのだと感謝している。
 その後も黒部さんとは行き来があった。雑誌の編集をするようになり、黒部さんから作家を紹介していただいたこともある。同人誌の印刷を通して知り合った方というが、そのような交流が生まれるのも、黒部さんの人柄であろう。
 黒部さんには六人のお子さんがいたが、すべてお嬢さんである。たしか昭和三十三年だったと思うが、ご長女を亡くされたときに弔問させていただいた。そのお悲しみは察するにあまりあった。やがて三十九年には世田谷の奥沢にあるご自宅をお訪ねした。閑静な住宅街の奥まったところにある二階建てであったと思う。ご馳走になりながら、短時間ではあったが、旧時をしのんだ。
 黒部さんは、こうした出会いを人に言うのではなく、胸に深くしまっておられた。私もまた、夜学生という青春の一時期に、随分とお世話になった方だけに、忘れられない人である。懸命に自分らしく生きる庶民のなかにこそ確かな人格の輝きがあるものだ。このことを、私は黒部さんをはじめとして、多くの方々から教えていただいた。
 晩年において悠々自適の日々を築かれた黒部さんの計報に接したのは、本年三月である。享年七十一歳であった。私は深くご冥福を祈った。葬儀には、私に代わって妻が参列した。その日は、前日の寒さが身にしむ天候とは打って変わって、梅が一輪、二輪とほころぶ春到来の暖かさであった。黒部さんの、人生労苦と勝利の象徴のように思えた。
 病重きも知らず、繁多に紛れて、もう一度お目にかかって、さまざまなお話し合いができなかったことが、いまもって悔やまれてならない。

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