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雑誌「少年日本」の作家たち 荘八、胡堂…  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  少年を友に、生きた一年があった。
 二十一歳のときである。私は、少年雑誌の編集に、全生命を打ち込んでいた。そのころの日記がある。昭和二十四年十月二十四日(月)――
 「『少年日本』――なんと、豊かな、力強い、言葉だろう。未来に伸びゆく少年。春の如く快活な動作。秋空の如く、澄んだ瞳。曠野の如く限りない希望。純情な少年は尊い。未来の、次代の、社会の建設者なれば、日本の宝と思わねばならぬ。
 今年は、これらの少年を、友に、相手にして精進できたわけだ。尊き仕事と、確信したい。
 少年よ、日本の少年よ。世界の少年達よ。願わくは、常に、一人も洩れなく明朗であれ、勇敢であれ、天使の如くあれ」
 私は、作家や画家の家を、飛び歩いていた。
 「冒険少年」を改題して「少年日本」として再出発した少年雑誌を、なんとしても育てたかった。
 先日、逝去された山岡荘八氏にも「紅顔三剣士」という熱血時代小説を連載していただいていた。一人は知恵、一人は腕、一人は真心で、正義のために戦う三剣士の物語である。壮年の気力が充溢した山岡氏は、頭髪も口髭も黒々とし、よく和服姿で、頭に鉢巻きをして、執筆しておられた。
 少年たちの読者のため、作家の方々に「私の少年時代」と題して、その生い立ちを語っていただき、コラムにまとめたりした。これは、評判がよかった。人物への興味は、老若男女を問わず、共通したものなのであろう。
2  山岡氏も、幼き日のことを話してくれた。貧乏で、十歳のとき、新聞配達や果物売りをした。十三のときは、修学旅行に行くため、土木工事に出たり郵便車を引いたりした。土運びで背中がすりむけたり、田舎の山道を郵便車を引いて、一晩に往復六里(二十四キロ)も駆けると、一週間は足がはれあがった。十四で、上越の山の中から上京し、苦学。とにかく十四歳から、着るもの、食べるもの、学資と、一人で働いてやってきた。「艱難汝を玉にす」と、机の前に書いて張っておいたが、なかなか玉にはなれなかった。ワッハッハハ……と。
 編集者として、原稿を依頼し、手に入れることは大変であったが、作家や画家と会って、少年時代の思い出話を聞くのは楽しいことであった。武蔵野に住んでおられた野村胡堂氏には「大地の上に」という純情熱血小説を連載していただいた。
 井の頭線の高井戸駅で下車し、武蔵野を流れる小川を越え、雑木林のある小さな丘の上にある胡堂氏の家を訪ねると、秋の日を浴びながら、氏が、温顔をほころばせて、少年の日を楽しそうに語ってくださった。そんなとき、江戸一番の捕物名人・銭形平次と胡堂先生のイメージが重なってきてしまい、ハッとするのであった。また、少年読者向けの懸賞バットにも、達筆な字でサインをしてくださったことを、今でも鮮やかに覚えている。
 私は、この年の最後の号である十二月号に、次の新年号の予告を次のように書いた。「野村胡堂先生の少年時代は、実に面白く、まるで劇のような少年時代でした。ページの関係で、新年号に御紹介します。楽しみに、お待ちください」。
3  ところがである。この新年号は、ついに出せなかった。戦後も、昭和二十四年ごろになると、休刊をつづけていた大手出版社の雑誌などが、用紙事情がよくなるにつれて、復刊しはじめ、私が勤めていた日本正学館など、歴史の浅い小出版社は、その販路を蚕食されていったのである。
 「少年日本」は、十二月号を最後に、廃刊になってしまった。最近、この最終号を手にする機会があって、とても懐かしかった。紙も粗末なザラ紙であったが、一三八ページにわたる一ページ一ページには、私の青春の日の思い出が、深く刻み込まれているのである。私は、三十年も前の活字や挿し絵を見ながら、新年号に予定していた目玉に、西条八十氏の詩があったことを思い出した。
 秋のある日、私は、成城に向かった。小田急線に乗って、成城学園で降り、駅前の広い道をまっすぐ五分ほど歩き、左に折れると、めざす西条邸があった。周りは、緑の多い住宅地である。正門のブザーを押した。庭で掃除をしていたという男の方が、取り次、ぎに出てきて「先生は、お留守です」と言った。私は訪問の趣旨を話し、次の訪問日を約して、辞した。「必ず伝えておきます」との感じのよい返事に、私は、ほっとした。

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