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日蓮大聖人・池田大作

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美術史家 ルネ・ユイグ氏  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  夕日が窓から輝いていた。パリ南郊のソー市内で会見した折のことである。時折、裏手を走る郊外線の電車の響きが、閑寂な空気を伝わって聞こえる。
 「それでは″エスプリ(精神)のための闘い″――このタイトルでどうでしょうか」。ルネ・ユイグ氏はそう言いながら、ゆったりと右手をあげた。私のほうに掌を向け、なかば肘をあげた挙手である。
 私は、不意を打たれたように感じた。
 一九七五年五月、東京に次ぐ一年ぶりの再会であった。二時間におよぶ互いのふところ深く踏み込んだ会話を通して、ユイグ氏の優れた美術史、美術批評家としての顔、さらには人間や宇宙の真髄に迫ろうとする思想家としての横顔を確かめることはできた。そうした親しい対話も終わりに近づき、私たちはこの語り合いを往復書簡によって引き継ごうと約束した。そのとき、タイトルとしてユイグ氏が示した″エスプリのための闘い″という言葉が、闘う思想家としてのもう一つの氏の面貌をくっきりと浮かび上がらせたのである。
 氏の白い頬には若々しく朱が差して、灰色がかった瞳は穏やかな光をたたえている。右手を時折あげるのは、賛同や共感を示す身についたサインのようであり、対談中にも何回かそういうことがあった。親しみあふれる挙手である。氏の眼差しや物腰には人間的な雰囲気が濃く漂っている。しかし、そのなかに太い気骨が貫いていることも感じられた。
2  そういえば、氏のこんなエピソードを私は耳にしていた。
 第二次大戦中、ナチス・ドイツ軍のパリ侵攻を恐れて、各所の美術品を地方へ運び、隠したことがある。ユイグ氏は二十一歳でルーブル美術館に入り、当時は三十代半ばであった。たしかロワール地方だったと聞いたが、地方の城館に運び込まれた数多くの美術品を、氏は管理していた。ある日、ユイグ氏の守る城館の扉がドイツ軍将校によって荒々しく押しあけられた。
 肩をいからす軍服姿を前にして、氏は一歩も退かなかった。
 「ここにある美術品はフランス一国の文化遺産ではない。全人類の財宝だ。ドイツが真に文化国家であれば、美術品を守るであろう。もし破壊するなら、あなた方は野蛮人というほかにない」
 開口一番、氏は言い放った。悪くすると銃殺されるかもしれないそんな危険を冒してさえ、人類の宝庫、ルーブル美術館の守り手としての良心に忠実に従ったのだろう。結局、武装将校は、身に寸鉄も帯びない氏の気迫に圧倒されてか、そのまま引き返していったという。
3  ユイグ氏はまた、レジスタンス運動に加わり、故人と・なったアンドレ・マルロー氏やジャック・シャバンデルマ氏らとも連絡を取り合って闘った経歴をもっ。とすれば、闘う知識人としての資質は、すでに第二次大戦において発揮されていたわけである。
 ″エスプリのための闘い″――ここに至って私は、氏との一体感をさらに強くした。対談は往復書簡に移されて、存分に信念を語り合えるであろう。
 「その対談はが″目に見えるもの″から、深い精神の対話に入っていく、そういう内容にしましょう」と氏は言葉を継いだ。
 氏は、このとき六十九歳の高齢にある。その生涯を込めて美術作品を見つめてきた氏にとって″目に見えるもの(ル・ビジブル)″とは、本来、美術そのものを意味する。著書にも『見えるものとの対話』というのがあって、見事な芸術論が展開されている。
 ルーブル美術館の美術品は二十万点を優に超える。その絵画部長として研究に没頭し、蓄えた知識の幅広さ、奥深さには定評がある。そういう″目に見えるもの″との半生を越える対話から、氏は目に見えないものを見、耳に聞こえないものを聞きえたはずである。
 「私たちの感覚がとらえる物質の存在の背後に、無限に大きく、無限に深い実在があります。この深い実在を″根源的なるもの″と呼んでいいと思う。″美″の追求は、すなわち芸術は、そういう深みに向かうものなのです」

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