Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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初老の駅員  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  それは、昭和十四年のことと記憶している。私は十一歳、小学校の五年生であった。初春の日差しがいっぱい輝いている日であった。
 数日前、一通の書状が、わが家に届いていた。兵役にあった長兄の喜一が、いよいよ外地に発つので、東京駅へ面会にくるように、との連絡であった。
 私は母とともに大田区(当時、蒲田区)糀谷の家を出た。
 現在の丸ビル側の面会場所には、すでに二百人ほどの家族が件んでいた。洋風に構えた駅舎を仰ぎながら、私たちは待った。
 やがて、出征姿の兵隊が、構内から現れた。波濤のように後から後から出てくる。凛々しく引き締まった兵隊たちの、どの顔も輝いて見えた。総勢三百人ほどであったか。歓声がどよめいている。母が目ざとく長兄を見分けて、手を振った。再会した私たちは、場所を探して座り、持参した海苔で包んだ大きなおにぎりを食べた。長兄は、母の滋味をゆっくりと噛みしめているようだつた。
 私たちの周りにも、同じような光景が広がった。時折、あちこちに笑い声がわいたが、目をしばたたかせる母親の姿も多かった。兵隊と別れを惜しむ若い女性は、新妻であったかもしれない。息子や、夫が、戦地を踏めば、生きて還れぬかもしれないことは、口には出さなくとも皆、知っている。
 面会者がいなくて、寂しげな兵隊もいた。あちとちと視線を向けて誰かを探している兵隊もいた。出立が急であり、秋田や山形といった遠隔地の出身者は、国元への通知が間に合わず、結局、首尾よく面会できた者のほうが少なかったようである。
 そんな情然としているこ、三の兵隊の姿を見つけた母は、あの兵隊さんにも、おむすびを差し上げたら、と私に言った。わが家は海苔屋だから、海苔には事欠かない。人より余計におにぎりを持参している。
 私は走っていった。兵隊たちは、遠慮していたが「どうぞ」と重ねてすすめると、「ありがとう、ありがとう」と受け取ってくれた。その顔が、ぽっと明るんで、私も嬉しかった。
 出発時間となって、兵隊たちは、ゲートルを巻き直し、帯剣を確かめると、駅舎の中に消えていった。母と私も帰路についた。
2  品川駅まできたときのことである。私たちは、京浜急行に通ずる階段に向かって、ホームを歩いていた。するとまもなく、向とう隣のホームに列車が入ってきたのである。兵隊を満載している。出征列車であることが、一目でわかった。「あの中に喜一が、もしや……」と母は口ごもった。母はもう早足に歩き出し、出征列車の窓から窓へと追いはじめていた。
 長兄らしい人影は見当たらない。平日午後の駅は閑散としていて、私たちのいるホームにも、ほとんど人はいなかった。
 そのとき、こちらに駆け寄ってくる駅員がいた。濃紺の詰め襟の制服を着て、動作はきわめて敏捷である。年齢は五十歳前後であったろうか。私たちの動作を見てとって、飛んできてくれたようである。
 「このなかの兵隊さんで、知っている人がいるのですか」。駅員は、せき込むように尋ねてきた。「もしそうだったら、私が大きい声で呼んであげましょう」と言う。この急場にこれほど有り難い援軍はない。メガホンを手にしている。前かがみで、母と私の顔を見つめる駅員の態度には、真剣さと、誠実味があふれでいた。母は、たった今、東京駅で長兄と面会してきたことを手短に説明した。「で、何という名前です?」と駅員。「池田喜一といいます」と母は答えた。
 すぐさま駅員はメガホンを口にあてた。そして、線路を隔てて停車している出征列車に向かつて「池田喜一さん、いますか」「池田喜一さん、あなたのお母さんがきていますよ」と揮身の力で声を張りあげながら駆けだした。長兄の名を呼ぶ声は、静かなホームにびんびんと響き渡った。駅員は二度、三度、私たちの前を往復した。
 すると、一人の兵隊がそれに気づいたようだ。立ち上がり、車内の奥に向かって「おーい、池田喜一!」と呼んでいる。
 ああ、長兄がいるらしい。長兄は、私たちとは反対側の窓側にいたようだつた。それゆえに私たちの目にはとまらなかったのだ。手前の窓側の兵隊が、気を利かして座席を立ってくれ、長兄は、そこに飛び込んで顔をのぞかせた。
 列車は静かに動き始めている。母は「喜一、喜一、体に気をつけるんだよ!」と叫んで数歩走ったが、すぐに列車に負けて足をとめた。長兄は窓から日の丸の旗を振りつづけている。私も懸命に手を振った。そのとき、遠ざかる列車と私たちのあいだに、省線電車が勢いよく進入してきて、視界は遮られてしまった。それきり、出征列車は見えなくなった。
 呆然としていた私たちが、われにかえると、傍らに、先ほどの駅員が立っていた。額には汗がにじんでいる。息をはずませながら「よかったですね」とニコニコしている。「ありがとうございました」と母が深々と頭を下げると、その駅員さんは、いかにも満足げな眼差しで、きちんと足をそろえて敬礼した。そして、足早に立ち去ったのである。
3  品川から帰る京浜急行の車中、母は「会えてよかったね」と言ったが、それきり寡黙だった。その無言の母の心は、知りえようはずもなかった。
 長兄は、一度は中国大陸の戦線より帰還したが、再び召集されて、昭和二十年一月十一日にビルマで戦死した。兄の誕生日の翌日であった。その白木の箱を手にした母も、他界してすでにいない
 四十年も前のことである。そのときの感謝とともに忘れ得ぬ駅員さんも、健在ならば九十歳前後になっておられるはずだ。さまざまな運命と波瀾の人生であったにちがいない。

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