Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

東西を結んだ若き情熱 アレキサンダー  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  世界史を鳥瞰するとき、最も雄大な版図をもった王として真っ先に挙げられるのは、アレキサンダーであろう。チンギス汗の率いた蒙古もそれに劣るものではないが、一人の王としての行跡とはしがたいし、後世のナポレオンも、規模においては数段劣る。三十二歳の生涯において、マケドニアからペルシャを経、遠くインドにまで進軍した激しさは、随一といってよいかもしれない。
 当然、その侵略は武力による。戦前は学童の血を沸かしたこの英雄も、平和憲法の戦後には影が薄くならざるをえない。わずかにその名を聞くことはあっても、史実を繙くには至らないであろう。今、子供向けの書籍に、その名を冠したものを発見するのは、困難なことにちがいない。たとえあったとしても、称賛より非難の響き濃い伝記となっているかもしれない。
 もとより、その評価は正鵠せいこくを射ていよう。多くの犠牲と残虐な行為の堆積が、アレキサンダーの哀しい墳墓となっている。家族を兵火に失い、民衆を軍靴で蹂躙する戦争の愚かさを知る私にとっても、その遠征の道を、ただ賛嘆の眼で見ることは、とうていできない。
 絶対的な権力は、また絶対的に滅びるものである。アレキサンダーの帝国は、遥かな人類史の淘汰作用の下に、その面影をとどめていない。この出自のマケドニアも、今日、小さな村落とともに自然のなかでひっそりと息づいているにすぎないという。
 二十歳で王となり、十二年間で火を吐くがごとき長征を成し遂げた、一個の巨大な燃焼は、小さな波浪として、海原の彼方に押し流されてしまったのであろうか。覇道の惨さを知る思いがするのは、決して私一人ではないと思う。
 しかし、新たな眼で見直してみると、その権力による支配は消え去っても、精神の遠征は、今なお人類史に、貴重な光源の一つとしてきらめいているのを認めることができる。かつては見過ごされがちであったアレキサンダーのもう一つの遺産が、新たな光琶を放っているようである。その見直し作業を行ってこそ、一個の人間の全体像が、より鮮明に浮かび上がってくるのであろう。やや、今までの人物群とは違った趣のあるこの若き王を取り上げてみる気になったのは、その視点のゆえである。
2  アレキサンダーが呱々のの声をあげたのは、紀元前三五六年である。哲学の遠き祖ソクラテスの直後の時代であり、東洋においては釈尊の活躍のあとであった。いわば哲学、宗教の夜明けの時代であったともいえよう。もっともキリスト誕生は遥か後であり、日本など、有史以前という状態であった。
 幼時から天才の誉れ高かったという。天賦の才を認めた父フィリップは、当代随一の学者アリストテレスを家庭教師につけた。ソクラテスの後継者プラトンの弟子を師にもったアレキサンダーは、十三歳に至る三年間、ギリシャ文学、倫理学、政治学、哲学、科学を学んだ。
 アリストテレスが自然科学、とくに医学等に造詣が深かった関係上、ほぼ全般にわたって知識が得られ、これがのちに戦闘の指揮に大いに役立つことになる。少年の家庭教師は、彼のためにわざわざ、哲学者たる王の思想を示した『王道論』や、植民支配を教えた『植民論』を著して、未来の王に贈っている。
 二十歳――父フィリップの暗殺によってマケドニア軍会議の決議のもと、王位につく。全ギリシャ騒然として反乱の兆候がみえたが、疾風迅雷、遠征地より取って返し、たちまちにして平定。以後、連戦連勝の日々が始まるのである。
 ギリシャを平定し、バルカン半島を手中に収めたアレキサンダーは、二年後、いよいよ東征の途につく。その彼方には強大なペルシャがあった。長い歴史を誇ったとの強国も、やや下り坂になっていた。しかし三度の大会戦を経て初めて滅ぼすことができたのである。斜線陣など、独特の戦法で勝利を収めたが、なにより勝因となったのは、やはり彼の率先垂範であったという。
3  将兵の先頭に立つ王は、幾度も生命の危険にさらされた。敵将二人に同時に襲われ、間一髪、味方に救われたことなど、戦闘史の遥かな一齣いっせきにすぎない。その戦いのなかで、若き王と臣下は「友だち」のごとき連帯意識を培っていった。
 強い意志、明晰な頭脳は父フィリップから、情熱的な性格は母オリンピアスから受け、どの戦闘にも劇的な勝利を収めて東征はつづいた。しかしそれは、武力による有無をいわせぬ制圧だけではない。もし、そのような転戦であれば、マケドニア軍はいくらいても足りなかったであろう。精兵は王とともに東へ征く。あとに残った地が叛逆しないのは、威力を恐れただけではあるまい。そこにアレキサンダーの占領政策の卓越性、人心をつかむ資質がみられるのである。
 勇敢に戦った敵の将兵を許すどころか、自分の親衛隊に用い、また捕虜となった敵将の母を王者の礼をもって遇し、逆に夫の首を持って許しを乞うた王妃を砂漠に追放するなど、義理に篤い王であった。
 それだけではない。被征服民族に対する思想に一歩進んだものをもっていたゆえに、占領政策が成功したのである。彼の師アリストテレスはこう説く。「ギリシャ人に対しては友に対するように、アジアの異民族に対しては動植物を扱うように」と。当時の最も進歩的な哲学者イソクラテスでさえ「へラス人と異邦人の相違は出自によるのでなく教養による」と、ギリシャ人の優位を説いている。
 しかし、アレキサンダーの考えは違った。「神は全人類のあまねき父にして、それゆえ全人類は同胞である。人類をギリシャ人と異邦人に区分すべきではなく、善悪によってわかつべきである」(『世界大百科事典』「アレクサンドロス大王」粟野頼之祐、平凡社)と。

1
1