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日蓮大聖人・池田大作

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孤高の哲人 デカルト  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  「思想の英雄」――かつてへーゲルはデカルトを評して、こう呼んだ。しかし最近、この近代哲学の父についての評価は、あまりかんばしくない。
 従来からも、彼ほどさまざまに位置づけをされた哲学者も少なく、ときには正反対のレッテルをはられてきた。彼の哲学の学理的側面というよりも、その形成過程にまつわる人間デカルト像の複雑さが、そうさせているのかもしれない。
 しかし、最近の多くのデカルト評は、それとは若干、ニュアンスを異にしているようだ。すなわち、破局に瀕した近代合理主義の祖という的に向けての、論難の矢である。
 たしかに地球的規模にわたる環境破壊の問題は、原水爆の脅戚と並んで、人類の存亡を決するともいえる難題である。「人類は、死の行進を始めた」などという、不気味なキャッチ・フレーズが取りざたされたのは、数年前のことであったが、その行進は、依然としてやもうとはしていない。
 そしてその根底に、自然と人間とを対立させ、自然を自らの支配下におくことにのみ専心してきた二元論的思考が横たわっていることも事実である。あくなき対象への支配欲と倣慢――デカルトによって先鞭をつけられた近代的自我の解放は、四海の荒波に翻弄されるまま、停泊地さえ見あたらぬ岸辺をさ迷っている。合理主義の始祖に批判が向けられるのも、ある意味では、当然のことと思う。
2  ところで私は、そうした文明史の曲がり角を見るにつけ思うのだが、われわれ現代人の陥りやすい通弊は、ともすれば現代の目のみをもって過去を裁いてしまう点にあるのではなかろうか。それがすぎるあまり、先人の歩いた道が示している、善悪両面の貴重な教訓をも、見失うようなことだけはあってはならないと思う。
 なにもデカルトを弁護しようというのではない。私の目は、一点に注がれている。それはともかく彼が、未踏の世界に懸命に挑戦し、生きたということである。彼の時代では、人びとの心を支えていたスコラ哲学の支柱が崩れ去り、精神世界は混迷の闇に覆われていた。そのなかでデカルトは、知力と情熱をふりしぼって生きた。
 彼は『方法序説』のなかで、自らを森のなかの旅人になぞらえている。「かれらが森の中で道に迷ったならば、もちろん一か所に立ちどまっていてはならないばかりでなく、あちらこちらとさまよい歩いてはならぬ、絶えず同じ方角へとできるだけ真直ぐに歩くべきである」(落合太郎訳、岩波文庫)と。
 彼は文字通り、そのような道を歩んだ。「一つ判断をあやまればすぐにも処罰されねばならぬ結果をきたすような、おのれにとって重大な事のために各人がこころみる推論においてこそ、はるかに多くの真理に出会うことができよう」(前出)との信念に立って、書斎や書物をすてて歩みつづけた。伴侶を求めず、ただ一人――。そこには、アカデミズムに閉じこもる、哲学者のイメージとはほど遠い、戦士の風貌が彷彿としている。
3  私は仏法者であり、デカルトの発想と次元を異にする立場にある。しかしデカルトにひかれるのは、彼の明晰をもって知られる哲学より以上に、そうした人間としての戦いの響きを感ずるからである。あるいは、哲理の明晰さが、流汗淋漓りゅうかんりんりたる現実との苦闘と表裏をなしているという一点である。
 ルネ・デカルト。この近代思想界の巨人は一五九六年、フランス中部の貴族の家に生まれた。貴族といっても下層に属し、パスカル、コルネーユ等も同じ階層から出ている。生まれてほどなく母を失い、自らも病弱であったという。
 十歳のとき、創立まもない、イエズス会系のラ・フレーシュ学院に入学。そこで、スコラ学とルネサンス・ユマニスムを軸とする諸学を学ぶ。明晰性と確実性への希求を、生来の質とした彼は、歴史学などの不確かな学問を嫌い、数学を、ことのほか好んだらしい。八年間で、ひととおりの課業を終えたあと、ポアチエの大学で、法律学と医学を学ぶ。
 だが、学院や大学で学んだ知識は、この鋭利で血気壮んな若者を満足させはしなかった。彼は二十歳にして、書物による学問に見切りをつけ、「世間という大きな書物」に学ぶために、諸国歴訪の旅に出る。ときに宮廷に遊んで議論をかわし、ときには軍隊に身をおく。ある女性をめぐって決闘におよび、勝ったこともあるという。剣にかけても、なかなかの使い手だったらしい。
 そして一六一八年から一九年にかけて、デカルトの生涯を決する画期的な″事件″に遭遇する。新進の自然学者べークマンとの邂逅と″デカルトの夢″として知られる知的啓示である。ベークマンとの出会いは、幼いころから愛好していた数学的自然学への志向を、決定づけた。たしかにそれは、当時の学問界の雄として台頭しつつあった分野だが、デカルトの資質はそこにとどまっているほど狭小なものではなかった。彼は数学者や自然学者である以上に、哲学者だったのだから。
 それを決定づけたのが、一六一九年十一月十日、ドイツのウルム郊外の炉部屋に滞在中の一夜、忽然と夢の中にあらわれた三つの啓示である。その内容については、死後四十年たって発見された手記に「私は霊感に満たされ、おどろくべき学問の基礎を見出した」とあることから推量されるだけである。

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