Nichiren・Ikeda
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ホイットマンの人間讃歌
「私の人物観」(池田大作全集第21巻)
前後
1 一人の子供が両方の手に一ばい草を持ちかへって来て云った、″草つてなあに?″と、どうしてわたしは子供に答へることができただらう? わたしがそれが何であるかを知らないのは彼れ以上には出ないのだ。
わたしはそれは希望にみちた緑色の材料で織られたわたしの気質の旗じるしに違ひないと思ふ。
2 私は今、富田碎花訳の詩集『草の葉』(朝日新聞社)を手にしている。
戦後、貧弱な装幀の多かった時代には珍しい、上質の和紙に印刷されたホイットマンのこの詩集は、財布をはたいて買い求めたときから、私の青春の記録となった。
自由を謳い、平等を愛し、友情を讃える言葉が速射砲のように私の胸を撃った。それはもはや言葉ではなかったようだ。炎であり、熱であり、鞴であり、坩堝であった。いみじくもホイットマン自身が「仲間よ、これは書物ではない、これに触れる者は人間に触れるのだ」(前出)と叫んだように、ホイットマンの生命が熱き噴流となって、紙面に躍っていた。
今、三十年もの歳月の流れを経ても、いまだに瑞々しい新芽を吹いて、この古びた詩集は私を緑滴る草の葉の鮮やかな平原に、おいてくれるのである。
『草の葉』――瑞々しきの精とでもいおうか、露を湛えて朝日にキラリと光る、若き生命の躍動を象徴している。この題名が私は大変に好きだ。
3 冒頭に掲げた詩は、そのなかの「わたし自身の歌」の一節である。草の葉を子供が持って聞く。「草つてなあに?」と。なんとふさわしい問いであろうか。なんと子供が持つにふさわしい宝であろうか。
清らかな瞳で聞く子供の問いは、根源的なものである。子供だからこそ問える。爽雑物にまみれた大人にはできない。しかし子供は、自身が答えであることを知らない。大地から生まれ、太陽を浴びて育つ草とは、子供そのものではないか。
華やかな冠、極彩色の花弁、風を防ぐ堅牢な幹の庇護。草の葉には、そうした飾り物も防御物もない。あるのは緑一色。無垢、希望、清新、躍動、青春……それをすべて一色に収めた緑だけが、草の葉の貴重な衣服だ。それを持つのは、子供でなければならなかった。
それはホイットマンの「気質の旗じるし」でもあったろう。彼はなにより自然人であったのだと思う。その詩に自然を多く謳っている。しかし、物質文明と対峙するかたくなな自然ではない。彼は人間の創り出した文明も大いなる賛同を込めて描いている。人間を愛し、人間の営為を賞でていたゆえであろう。
大地を愛し、大地に生きる人間を誰よりも愛し、大地とともに在る草の葉を自身に譬えたホイットマン。彼に触れるものすべてが、否、たとえ触れることがなくても、この大地に在るものすべてが彼の分身であり、彼にとっては「草の葉」であったのではないだろうか。