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日蓮大聖人・池田大作

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宇宙の律動とアインシュタイン  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  私の恩師である戸田城聖先生は、若いころにアインシュタインの講演を聴くことができた体験を、ときどき懐かしそうに話しておられた。その当時は、恩師は牧口常三郎先生のもとで小学校の教師をされていたころで、まだ二十二歳の青年であった。数学や物理、化学などが好きで、教務のかたわら、研究に没頭していた恩師は、アインシュタイン来訪のニュースを聞くと、心を躍らせてその日を待っていたそうである。
 この不世出の物理学者は、大正十一年(一九二二年)十一月十七日に、神戸港に上陸して来日の第一歩をしるした。一日おいて十九日、彼は東京・三田の慶応義塾大学中央大講堂で一般大衆向けに「特殊及び一般相対性理論について」と題して、五時間にわたって講演している。前年ノーベル物理学賞を受賞、世界的名声に輝いていたアインシュタインの講演とあって、多数の人びとが詰めかけた。恩師は牧口先生とともに、そこに席を連ねていたのである。
 四十三歳のアインシュタインの声は確信に満ちて流れ、その講演は芸術的でさえあったと、感嘆されていた。物理学者としての偉大な業績に対する敬意は当然のこととして、それ以上に恩師は、アインシュタインの言動を通してにじみでてくるその人格に、深い感銘を覚えておられたようであった。あるときはその体験を「一生のしあわせ」とまで申しておられた。
2  アインシュタインの飾らぬ人柄には、多くの日本人が魅せられたようである。当時の一般紙誌をめくってみると、二十世紀物理学の興隆を背景にした、やや興奮気味の雰囲気さえ伝わってくるが、面白いことに、彼が訪米したさいにも、現地の記者が「彼のなかに宇宙の人格化をみた」と報告している。言い得て妙であり、人びとは、アインシュタインの言動のなかに、巨大な精神を感じとっていたのであろう。
 そんな思い出もあって、私にとって、アインシュタインの名は、ことのほか親しいものとなっていた。それだけに、彼の死去のニュースを聞いたときの驚きは、まだ鮮明に覚えている。ちょうど、恩師のもとで、多忙な日々を送っていたとろであった。私は、偉大な足跡にもかかわらず、必ずしも幸福とはいえなかったこの大科学者に、なにか他人ではないようなものを感じ、深く冥福を祈ったものである。
3  アルベルト・アインシュタインは、一八七九年、ドイツ南西部のある中都市に生まれた。″鉄血宰相″ビスマルク全盛のころである。両親はユダヤ人であった。この血統が第一次大戦中、さらにはナチスの時代にあって、彼の生涯にいかに大きな影響をおよぼしたかは、いうまでもない。
 少年時代の彼は、身体も弱く、さして目立つ存在ではなかったらしい。どちらかといえば仲間から離れて、独り物思いにふけっているようなときが多かったという。寡黙のうえ、口をきき始めるのも遅く、両親は、身体的欠陥を心配したほどであった。
 ただ″三つ子の魂百まで″とはよくいったもので、五、六歳ごろの彼には、晩年の大科学者のおもかげを彷彿させる、いくつかのエピソードが伝えられている。
 その一つは、磁石の体験である。四歳か五歳のころ、彼が病気で寝ていたとき、父がおもちゃに小さな磁石を一つ買ってくれた。この磁石との出合いが、幼いアインシュタインに与えた影響は、いささかドラマチックでさえあった。磁石をどう動かそうと、容器のなかの小さな磁針は常に北をさしている。早く回してみたところで同じである。針は必死になって一点に狙いを定めてしまう。なぜ――。彼は六十年以上ものちに、このときの驚きを「私は今でも、この経験が私に深い永久的な印象を与えたことをおぼえている」(B・ホフマン、H・ドゥカス著『アインシュタイン』鎮目恭夫、林一共訳、河出書房新社)と回想している。
 後年、彼のめざましい業績を目の当たりにした人びとは、この体験、すなわち空間は単なる無ではなく、磁針を一定の方向へと向ける何ものかが存在し働いているという感触が、のちの諸理論、とくに一般相対性理論の発見へと深く繋がっていると指摘する。私はそれは、決して誇張ではないと思う。科学にかぎらず、芸術や宗教の分野に・おいても、天菓の資質が、その片鱗を垣間見せるのは、想像以上に早いものである。もっとも、こういうと彼は、自分に天分などない、人一倍好奇心が強かっただけだ、というかもしれないが――。

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