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日蓮大聖人・池田大作

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よみがえるアショーカ  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  「アショーカ王は世界で最高に尊敬したい大王だ」とは、汎ヨーロッパ運動の指導者であった故クーデンホーフ・カレルギー伯の賛辞である。ク伯とは生前、私は二度ほど対談の機会をもったが、話題がアショーカ王のことにおよぶと、氏は双つの瞳を生きいきと輝かせ、頬を紅潮させて、絶賛していたのが印象的であった。
 ク伯によると、アショーカ王治下のインドには、古代の世界において最もすぐれた文化の華が爛漫と咲き誇り、そしてなによりも戦争のない治世が二十年以上にもわたってつづいたからであるという。ク伯にかぎらず、西欧の知識人のなかには「アショーカ王の治世に生まれたかった」という人さえいるが、もっともなことと首肯うなずけるのである。
2  東洋の仏教徒にとって、アショーカ王は伝説的な存在であった。仏に沙の餅を供養した童子の話は、多くの人が子供のころ、一度ならず聞いた覚えがあるにちがいない。
 それは――釈尊が王舎城の郊外を、托鉢していたときのことである。二人の童子がいた。彼らは、ともに土いじりをして嬉々として遊びたわむれていた。
 二人は、遥か彼方から世尊が近づいてくるのに気がついた。仏の立派な姿を見て、子供心にも歓喜の念が湧いたのであろう。何かを供養したいと思ったが、食べるものも身につけるものも、供養できる品は何ひとつない。
 ときに闍耶じゃや(徳勝)童子は、心に念じたという。――「われ、まさに細沙をもって供養せん」と。すなわち徳勝童子は、手ずから沙の餅をつくって高く捧げ、世尊の鉢中に入れたのである。もう一人の毘闍耶びじゃや(無勝)童子は、そのとき、仏に合掌して随喜したといわれる。仏が沙の餅を、微笑しつつ受け取ったことは、いうまでもない。
 すると、側に付きしたがっていたアーナンダ(阿難)は、なぜ世尊が微笑したのか疑問に思った。――その質問に答えて、釈尊は、おおよそ次のように言ったという。
 「わたしが今、笑みを浮かべたのには、因縁があることを、阿難よ、まさに知りなさい。わが滅度百年の後において、この童子はパータリプトラで一方を統領する転輪王となるであろう。姓は孔雀、名は阿育である。正法をもって治め、また広く舎利を布き、八万四千の法塔を造って、無量の衆生を安楽にするであろう」
3  以上が経文に説かれた阿育王の因縁譚である。後に、マウリヤ王朝の第二代ビピンドゥサーラ(頻頭裟羅)王の子として、このときの徳勝童子は無憂むう、無勝童子は離憂りうという名で生まれたとされている。ここに「無憂」とあるのは、アショーカの意である。
 ところで、史上稀有の名君としてのアショーカ王の存在自体について、西欧の歴史家は、東洋の仏教徒が想像のうえで描いた伝説的人物であったろうとして、長いあいだ信用しなかった。彼らは、釈尊さえ伝説上の人物と見なしていたのである。
 しかし、一八三七年のことである。イギリス人ジェームス・プリンセプが、古代インドのプラーフミー文字で書かれた碑文の解読に成功した。碑文には、デーヴァーナンピヤ=ピヤダシ(神々の愛するピヤダシ=天愛喜見王)という名の王が登場し、いかにも理想的な王道政治が宣明されている。――西欧の歴史家たちも、思わず目を見はるほどの内容であった。
 だが、碑文に書かれたピヤダシなる王が、いったい誰のことなのか、なかなか判明しないまま長い歳月が経過した。そして一九一五年、南インドのマイソール州で発見されたマスキ岩碑には、デーヴァーナンピヤ=アショーカ(神々の愛するアショーカ=天愛阿育王)と、明確に刻印されていたのである。これによって、謎の人物ピヤダシとは、アショーカ王自身であったことが確認され、すぐれたこの王の存在は史的事実として、二十世紀の世界史上に華々しく蘇った。
 今日までに発見され、解読されたアショーカ王の碑文は、四十数種にものぼるという。その内容について、すでに私は『仏法・西と東』(後藤隆一共著、東洋哲学研究所)『私の仏教観』(第三文明社)などで若干の解説を加えたが、その後、塚本啓祥氏によって翻訳された『アショーカ王碑文』(第三文明社、レグルス文庫)から引用させて頂き、その業績を改めて確認しておきたい。

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