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日蓮大聖人・池田大作

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ガンジーの魂と実践  

「私の人物観」(池田大作全集第21巻)

前後
1  私がインドを訪れたのは、一九六一年のことであった。果てしない広大な風土と、永遠を思わせる時間の歩みがそこにあった。現代を刻む時のほかに、数千年の時の流れがまざまざと迫ってきた。天空と大地の接点に、悠久のガンジスが流れ、そこここに肩を寄せ合って生きる貧しい人間の集落があった。
 私はこうした風景に立って、星や太陽と語り合う詩聖タゴールの呼吸を感じた。が、同時に、そのなかで人口増加と貧困のどん底に生きる大衆の姿に、ガンジーの苦闘を思い起こさずにはいられなかったのである。
 マハトマ・ガンジー――「偉大なる魂 ガンジー」とは、タゴールの贈った名であるといわれる。インド大衆にとって、まさに魂のよりどころであったことを表徴しているとともに、差別打破という形而下の戦いを「魂」で推し進めた哲学者の実践を称賛して余りあるであろう。
 たとえば、ガンジーの抵抗運動の一つに断食がある。武器をもたぬ階層のなしうる、有効で悲惨なこの方法は、彼の好んで用いた形態の一つであるが、それは単なる「抵抗」にとどまるものではない。彼の言葉を借りれば「敵の欠陥をつくとともに、敵の長所や良心を揺さぶりだすため」であった。相手に、生命の厳かな尊さを認識させ、魂の底からの合意を生み出そうとするための方法であった。
 哲学のない運動は、それがいかに尖鋭にみえようとも、底の浅い感情の葛藤と、残虐な抗争をもたらし、儚い栄華と空しい廃墟を残すのみとなるであろう。とともに、実践を伴侶にせぬ思想は、いかに華麗で荘厳にみえようと、現実の峨々たる艱難には野干の遠吠えに過ぎぬ。ガンジーの生涯の偉大さの一つは、真理を求めてやまぬ哲学の「魂」と、それを詩に終わらせなかった行動の「汗」とが、美しく融合していたところにある、と私はみる。
 ガンジーの運動は、非暴力による不服従の抵抗である。暴力による抵抗は犠牲と自己の破滅をしかもたらさないことを彼は知っていた。肉食をも断ったガンジーの生き方と、それと逆の暴力による抵抗は、まさに対極にあった。それに代えるに、絶対の不服従――そのためにいかなる人びとも牢獄に入ることを決意せしめた――、彼の断食、そして行進。彼はあらゆる平和的手段をもってあたったのである。
 今日の、核の行使さえもちらつかせる力の国際政治の舞台にあっては、彼のこの行き方は、いかにも無抵抗そのものにみえる。いかに抵抗しようが、践摘されるのみではないか。絵空事の、幼稚な抵抗ごっこであると、口を極める人たちもいよう。しかし、ガンジーは、非暴力による抵抗を、最も強き者のとる方法と信じていた。
2  ガンジーのこの戦いは、一八九三年、彼が二十三歳のとき、弁護士の仕事のため南アフリカへ向かう道中から始まったといってよい。差別待遇の激しい同地で、この青年弁護士は、馬車に乗ったとき御者に殴打され振り落とされそうになった。必死に馬車の真織の手すりにつかまりながら、なおかつ暴力で対抗しようとはしなかった。そして最後には馬車に乗り込むことに成功したのである。
 過酷な重税と、人間を人間とも思わぬ南アフリカでの対インド人差別。弁護士として種々の紛争を、訥々とした口調で解決し終え、インドへ戻ろうとしたガンジーは、出発の前日になって、翻然として解放のために踏みとどまることを決心した。それから二十年の忍耐強い戦いが始まる。
 その間、投獄されること四回。牢獄と、断食と、農場(それは運動の拠点であり、教育の場でもあった)と、機関紙「インディアン・オピニオン」の執筆のあいだに生きた二十年であった。敵からは執念深く圧迫、虐待され、過激派からも、なまぬるい妥協派と敵視されながらも、命もしばしば狙われた忍従の二十年でもあった。
 一九一四年、勝利が訪れる。遥かな山河を踏破した果てに、ようやくつかんだ「虹」であった。しかしそれは、より大きな「母国インドでの戦い」の前哨戦にすぎなかったのである。
 以後、一九四八年、一人のヒンズー教徒の三発の凶弾に倒れるまで、また彼の熾烈な戦いが始まる。イギリス政府に圧迫されたインド人民の解放をめざしての戦いは、死の前年、インド独立をもって一応の結末を迎えている。じつに高価な代償をともなっての独立であった。
 第二次世界大戦という、避けることのできない強大な嵐のもとで、ガンジーの不服従運動は、一隻の小舟にすぎなかった。インド自体は参戦を余儀なくされ、戦時下で自由獲得を叫んだ彼らのデモ隊も、たった四か月のあいだに一万人もの犠牲者を出している。非暴力は戦争や弾圧という暴力に、いともたやすく悲しくも踏みにじられた。
 しかし、ともかくもインドは中央政府を樹立、一九四七年、独立を勝ち取った。ガンジーは人びとから「インド民族の師父」と呼ばれるようになった。しかし、彼は晴れの式典には参加していない。メッセージさえも送らなかった。なぜなら、輝ける民族の独立の陰には、インドとパキスタンの分裂という、最も悲しむべき事実が潜んでいたからである。
3  これが、ざっと駆け足でたどった彼の生涯の軌跡である。その軌跡がそのまま、ガンジーという一人の人間の人となりをあらわに見せているようだ。
 彼の非暴力不服従という運動論は、暴力が悪であり、非暴力こそが真理であるという認識に立っていたことは確かである。しかして、それだけにとどまるものではない。非暴力不服従が暴力に勝つ――その強さを彼は信じていたからこそ、この方法を採ったのである。
 では非暴力は暴力に勝ったか。南アフリカでは勝った。インドに、おいては必ずしもそうとはいえない。また彼の一個の人生においては、銃弾という暴力に敗れ去ったかのようにみえる。
 しかし、この場合には有効であった、あのさいには無力であったというような、近視眼的な見方は正鵠を射ていまい。そのような見方はガンジーに笑われるだけであろう。もっと人類史を俯瞰した、大局の眼で洞察していくべきではないだろうか。
 非暴力不服従は、大規模な運動としては歴史始まって以来の方法である。圧迫も強かった。初めは嘲笑し、次にはもてあまし、ついには逆上して弾圧しようとする反動の一団との、たとえようのない難戦の連続であった。
 ある意味においては、武器をとって抵抗することは容易であるともいえる。武力を使うことも艱苦と悲惨と忍耐を要する戦いとなろう。しかし、武器をもつ相手に武器なしで勝つことは、さらに困難を要するのである。
 ガンジーは幾度も死線に生きた。その激しい断食による抗戦をもって、彼は死のなかから真理の剣を突きつけたのである。一個人の生に執着する覇道の利己心は、彼には微塵もなかった。瀕死の淵からはたと見つめる必死の眼は、倣慢の権力者を、揺さぶらずにはおかなかったのである。
 ガンジーが悪法に抗議して断食に入るたびに、全インドは息をつめて、その推移を見守ったという。
 その至高の誠意が、抵抗運動に点火し、爆発的なうねりを生んでいった。この類なき強さをもって初めてなしうることなのである。非暴力抵抗を笑う人に、自ら死を覚悟し、わが一身をもって全人民の楯とせんとした崇高な魂を非難できようか。私には決してできない。
 現代世界の指導者のなかに、現実に自らを死にまで落とさんとした人がいるであろうか。死を口にし、悲壮のポーズをとる人はいよう。しかし、ガンジーの一言の千鈎の重みに比べれば、軽佻のそしりを免れまい。まして、自己の栄達に狂奔する権力者にいたっては、語るまでもない。しかし、現実の政治の舞台に、この悲しむべき徒輩がひしめいているのは、どうしたことであろうか。

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