Nichiren・Ikeda
Search & Study
注解
「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)
前後
1 〈あ行〉
『蒼き狼』
モンゴル帝国の創設者・成吉思汗の生涯を描いた歴史小説。「上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき」との『元朝秘史』の記述をもとに、ヨーロッパにまで遠征した英雄の波瀾にみちた生涯が語られる。一九六〇年の作品。
青木繁
(一八八二年―一九一一年)明治期の洋画家。福岡県の久留米に生まれ、東京美術学校に学ぶ。ロマン的画風の作品を多く残した。
「赤とんぼ」
一九二一年(大正十年)、三木露風の作詞、山田耕筰の作曲になる童謡。五音音階を用いた出色の作品で、大正・昭和期を代表する歌謡。歌題は「赤蜻蛉」だが、歌詞の一番には「夕やけ小やけのあかとんぼ」とあり、四番は「夕やけ小やけの赤とんぼ」となっている。第二次大戦中から戦後、中国残留孤児の間でも望郷の歌として歌われた。
浅井忠
(一八五六年―一九〇七年)明治期の洋画家。佐倉藩士の子として江戸に生まれ、英学を修めてイタリア人フォンタネージに師事した。明治美術会を創立、東京美術学校教授に任ぜられ、フランスに留学。晩年は関西洋画壇の振興に尽くした。
阿闍世
釈尊在世時のマガダ国の王。梵語でアジャータシャトルといい、未生怨と訳す。太子だったとき、提婆達多にそそのかされて酔象を放ち、釈尊を殺そうとした。また、仏弟子となっていた父ビンビサーラ王を監禁、獄死させてみずから王位についた。即位後、前非を悔いて仏法に帰依し、釈尊入滅後の第一回仏典結集のさい、これを外護したと伝えられる。
阿育
前三世紀、インドのマウリヤ王朝第三代の王。在位は前二六八年―前二三二年頃とされる。即位の初期は「暴悪阿育」と呼ばれ各地を攻略したが、東インドのカリンガ国を征服したさい、戦争の悲惨さに目覚め、以後は仏法に帰依して「法による統治」をめざした。梵語ではアショーカ王だが、漢訳仏典では「阿育王」「無憂王」などと表記される。インド各地より発見された碑文では「天愛喜見王」などと自称している。
『あすなろ物語』
あすは桧になろうと念願しながら桧にはなれない「あすなろ」の木に託して、伊豆で育った幼年期からの成長過程を描いた作品。一九五三年、「オール読物」誌上に連載され、翌年、新潮社より刊行。
アトランティス大陸
プラトン晩年の対話編に出てくる伝説上の楽土。もとジブラルタル海峡の外側にあったが、大地震と大洪水とが重なり、一昼夜にして海中に没し去ったという。ヨーロッパ中世では、この島は実在したものと信じられ、さまざまなロマンを生んだ。
有吉佐和子
(一九三一年―八四年)作家。和歌山に生まれたが、父の勤務先であるインドネシアに渡り、バタビヤ日本人小学校に入る。戦後、東京女子大に進み、学生時代から創作活動を始めた。伝統芸術を描いた『地唄』が芥川賞候補となって注目され、その後は『紀ノ川』『有田川』『非色』と問題作を発表。アメリカ留学、ヨーロッパ旅行、中国滞在など、海外取材の行動力もあった。『恍惚の人』『複合汚染』など話題作も多い。
「アルコル橋のボナパルト」
フランスの画家アントワーヌ・ジャン・グロ(一七七一年―一八三五年)の作品。一七九六年、ベネチアでの激戦でみずから馬を下り、旗を持って橋の上へ突進するナポレオンの勇姿を描く。
「アレキサンダーの道」
一九七三年五月から六月にかけて、アフガニスタン、イラン、トルコのアレキサンダー(アレクサンドロス大王)東征の道を約一万キロ、その大部分を自動車で走破した時の紀行文。一九七四年から翌年にかけて「文藝春秋」誌上に連載され、一九七六年に刊行された。
アレクサンドロス
(前三五六年―前三二三年)マケドニア王フィリッポス二世の子として生まれ、二十歳で即位。ギリシャを征服後、前三三四年から東方遠征の途につき、アケメネス朝ダレイオス三世の軍を破って中央アジア、インド西北部に至る。前三二六年までに広大な世界帝国を実現したが、前三二三年、三十二歳でバビロンに病没した。その遠征と大帝国の建設により、東西文化交流の道が開かれた。アレキサンダー大王とも呼ばれる。
アロハ
ハワイ語で「愛」や「親切」、挨拶の「ようこそ」「さようなら」を意味する言葉。
アンコール・ワット
カンボジアのシェムリアップ市外、トンレ・サップ湖の北にあるアンコール朝(九―十五世紀)の寺院址。砂岩のブロックを積み上げて建てられた巨大な聖殿で、クメール建築の最高傑作といわれる。著者は会長就任後の一九六一年二月十一日、アンコール・ワット(寺院址)とアンコール・トム(都城址)を訪れた。
安西
甘粛省西北部の都市。古来、シルクロードの河西回廊から西北の伊吾(新●ウイグル自治区ハミ周辺)へ向かうさいの重鎮で、隋・唐代には玉門関も置かれた。唐代には一時、瓜州と呼ばれ、晋昌、常楽の両県があった。現在の安西から南四十五キロに唐代の瓜州城址があり、そこからさらに南へ行くと、水峡口石窟、楡林窟、旱峡石窟など仏教遺跡が残っている。
安藤更生
(一九〇〇年―七〇年)美術史家、文学博士。東洋美術研究会を創設、戦後は早稲田大学教授として美術史を講じた。
遺訓として宣言された…
戸田城聖創価学会第二代会長が一九五七年九月八日、横浜の三ツ沢競技場で開かれた青年部の第四回東日本体育大会の席上、遺訓すべき第一のものとして「原水爆禁止宣言」を発表したこと。「それ(原子爆弾)を使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界にひろめることこそ、全日本青年男女の使命である」と述べ、これが創価学会の平和運動の原点となった。
池大雅
(一七二三年―七六年)江戸中期の画家。京都の人。南画を学び、伊孚九に私淑。天真爛漫、逸事奇聞多く、その作品も特殊な風格を帯び、書にも優れた。
一千万人の署名運動
一九七四年九月、青年部が核廃絶を求める一千万署名を達成。一九七五年一月、国連本部を訪れた著者によってワルトハイム事務総長に届けられた。
井上吉次郎
(一八八九年―一九七六年)新聞記者、文学博士。東京帝大文科大学を卒業し、東京日日新聞社から大阪毎日新聞社に転勤。調査、学芸、出版、編集部の各部長を経て出版局次長、副主筆となった。退職後、関西大学教授となり、新聞学を講じる。著『社会学』『新聞原理概説』『マスコミュニケーションの諸問題』など。
井上靖氏の小説『敦煌』
中国西北の辺境のオアシス敦煌に、無数の宝典が埋められた。その宝の山に惹かれた一人の若者が、動乱の渦中に辿り着いた数奇な運命を追いながら、中国の秘史を描いた歴史大作。一九五九年に「群像」連載、同年講談社より刊行され、八八年には日中合作により映画化され、評判を呼ぶ。
インディラ・ガンジー
(一九一七年―八四年)ネルー首相の一人娘で、インドの政治家。十二歳の時から独立運動に参加。イギリスに留学後、パールシーの政治家フェローズ・ガンジーと結婚、長男ラジブと次男サンジャイの二子を産む。父ネルーのもとで政治活動の経験を積み、国民会議派総裁となる。後に首相に就任し、インドを指導した。
ヴァルシャカーラ
釈尊在世時、マガダ国のアジャータシャトル(阿闍世)王に仕えた大臣。漢訳仏典では「行雨大臣」と記される。はじめ王の太子時代、提婆達多とともに太子をそそのかし、父王ビンビサーラ(頻婆舎羅)を殺させた。釈尊に対する敵対行為を助長させた大臣であるが、のちに阿闍世王が釈尊に帰依すると、行雨大臣も王を補佐して国政に尽力したと伝えられる。
ウォーナー
(一八八一年―一九五五年)アメリカの美術史家。一九二四年、ハーバード大学付属フォッグ美術館の東方部主任の時、敦煌莫高窟を訪問して第三二〇窟などから二十六面の壁画を剥がし取り、第三二八窟などから塑像数体を持ち去った。その翌年、二度目の敦煌調査を試みたが、途中で中国人に阻止され、敦煌には一歩も踏み込めなかった。その経緯は、ウォーナー自身の調査報告書に記されている。
臼井吉見
(一九〇五年―八七年)編集者、評論家、作家。戦後創刊された雑誌「展望」の編集長として活躍。同時代の記録『戦後』をまとめ、晩年には大河小説『安曇野』を完成した。
歌川(安藤)広重
(一七九七年―一八五八年)江戸末期の浮世絵師。姓は安藤だが、歌川豊広の門人で、別名・歌川広重とも呼ばれる。詩情ゆたかな風景画の連作で知られ、作品に「東海道五十三次」「江戸名所百景」など。
内村鑑三
(一八六一年―一九三〇年)宗教家、評論家。札幌農学校に学び、渡米してアマスト大学に学んだ。帰国後、無教会キリスト教を唱え、雑誌「聖書之研究」を創刊。著『代表的日本人』など。
「雨中耕作図」
第二三窟の主室北壁、西側上層の部分に描かれる。厚い雲が垂れこめる下、雨にぬれながら天秤棒をかついで物を運ぶ人、牛を笞打って畠を耕す農夫の姿が見える。構図中央に三つの榜題が記され、上方に「慧雲含澗電光晃曜/雷声遠震令衆悦予/其雨普等四方倶下/干地等温薬木並茂」とあることから、この部分は『法華経』薬草喩品第五に見える「雲雨薬草の譬喩」(または三草二木の譬喩)を表すものと解釈される。
于●国
中国の新●ウイグル自治区に栄えた古代王国。古くから西域南道の要衝に位置し、崑崙北麓のオアシス都市・和田(ホータン)周辺に遺跡が多い。古代于●国では大乗仏教を信奉し、ホータン周辺からは『法華経』梵本が多く出土している。なお十世紀、敦煌周辺の支配者だった曹議金の娘が嫁いだ当時の于●国王は「李聖天」という名だったことが、第九八窟の墨書題記によって知られる。
『永遠の都』
イギリスの作家ホール・ケイン(一八五三年―一九三一年)の代表作。西暦一九〇〇年のローマを舞台とした壮大な革命劇が描かれている。
永寧寺
中国洛陽(河南省)にあった寺院。はじめ北魏の献文帝が大同(山西省)に建立したのを五一六年に移築した。僧坊千余を有した大寺だったが、五三四年に火災により廃絶したという。
江上波夫
(一九〇六年―)東大卒後、直ちに東亜考古学会の留学生として北京に派遣される。また東方文化学院研究員として内蒙古を横断、遊牧民系騎馬集団の調査にあたった。戦後、東大教授となった一九四八年、日本民族の源流と国家の形成に関して「騎馬民族征服説」を唱え、注目される。著『騎馬民族国家』など。文化勲章を受章。
エルベ川
ドイツ第二の大河。チェコ・スロバキアとポーランドとの国境山地に源を発し、ボヘミア盆地の諸流を併せてドイツを貫流、北海に注ぐ。本流に河港ハンブルクがある。全長一一六五キロメートル。第二次大戦の終局近く、この川の中流で東西からナチス・ドイツに進攻した米ソ両軍が合流、感激の握手を交した史実は「エルベの誓い」と呼ばれた。
遠藤周作
(一九二三年―九六年)作家。慶応義塾大学に学び、フランスに留学して現代カトリック文学を研究。帰国後、「白い人」で芥川賞を受賞。『沈黙』『海と毒薬』『侍』などの作品がある。文化勲章を受章。
閻立本
(?―六七三年)初唐の画家。雍州万年県(西安)の人。唐の太宗に仕えて工部尚書、中書令を歴任。人物画、車馬、台閣などを得意とし、なかでも「太宗像」は当時、称賛された。
王維
(六九九年頃―七六一年)盛唐の詩人。字は摩詰。太原(山西省)の人。若くして科挙に及第、官は尚書右丞に至った。書画にも優れ、南宋画の祖とされる。
王翰
(六八七年頃―七二六年頃)盛唐の詩人。作品中でとりわけ「葡萄の美酒夜光の杯……」の涼州詞は名高い。
王昌齢
(七〇〇年頃―七五五年頃)盛唐の詩人。七言絶句の名手として知られる。
大城立裕
(一九二五年― ) 沖縄に生まれる。上海の東亜同文書院に進み、学半ばにして現地入隊。戦後、高校教師から琉球政府職員に。小説「カクテル・パーティー」で芥川賞受賞。
「幼き日のこと」
懐かしいみずからの幼時を愛惜の念をこめて回想した自伝的作品。一九七二年九月から翌年一月まで「毎日新聞」夕刊に連載された。
大佛次郎
(一八九七年―一九七三年)昭和期の小説家、劇作家。本名・野尻清彦。『鞍馬天狗』の作者として知られ、時代小説からノンフィクションまで幅広く活躍、史伝『パリ燃ゆ』などもある。文化勲章を受章。
折口信夫
(一八八七年―一九五三年)国文学者、歌人。大阪に生まれ、国学院大学卒。国学院、慶応義塾大教授をつとめる。国文学研究に民俗学を導入、独自の学風を開いた。釈迢空の名で歌人としても知られた。
『おろしや国酔夢譚』
およそ二百年前、日本の鎖国時代に船頭・大黒屋光太夫らが当時ロシア領の小島に漂着、数奇な運命をたどって帰還するまでの史実をもとにした歴史小説。一九六六年から翌年にかけて「文藝春秋」に連載され、六八年に刊行された。ロシア語訳は一九七七年に出版される。
2 〈か行〉
霍去病
(前一四〇年頃―前一一七年)前漢の若き将軍。弱冠二十歳にして武帝の命により匈奴を討伐、冠軍侯、驃騎将軍、のち大司馬に拝せられた。
河西回廊
河西とは、中国の甘粛省を流れる黄河の西。祁連山脈の北側に沿った地域を、俗に河西回廊と呼ぶ。漢の武帝時代、ここを占拠していた匈奴を撃退し、東から西へ武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を置いた。
『化石』
癌の宣告を受けた初老の実業家を主人公とし、極限的状況の中で「生と死」の問題をはじめ、人生そのものに対する根本的な問いかけがなされた長編小説。一九六五年から翌年にかけて「朝日新聞」紙上に連載され、六七年に講談社より刊行された。
夏鼐(かだい)
(一九一〇年―八五年)中国の考古学者。浙江省温州の人。清華大学史学科を卒業し、河南省安陽の殷墟発掘をはじめ数多くの発掘に参加。新中国の考古研究に指導的な役割を果たした。ロンドン大学考古学博士。
月氏
前三世紀末まで中国の西北、モンゴル高原の西半に活躍した遊牧民族。前二世紀の前半、同じ遊牧民族の匈奴に追われ、中央アジアに移動した。司馬遷の『史記』によれば、月氏西走のさい、一部は南山の羌族支配地区に逃げ、現在の甘粛、青海両省からチベット地方に踏みとどまった部族を「小月氏」と呼んだという。前一三〇年頃、アムダリヤ北岸に王庭を置いた主力を「大月氏」と呼び、漢訳仏典では「月支」とも記す。
葛飾北斎
(一七六〇年―一八四九年)江戸後期の画家。江戸は本所の人。初め勝川春章の門に入り、役者・美人画など描く。その後、洋画の技法などをも採り入れ、風景画に長じた。
角川源義
(一九一七年―七五年)国文学者、角川書店創立者。中学時代から俳句を作り、折口信夫の学風を慕って国学院大学に学ぶ。戦後、角川書店を創業し、文庫本、文学全集ブームの先達をなした。著『語り物文芸の発生』で文学博士。
『楽府詩集』
中国古代から唐末五代までの詩歌作品を集大成したもの。百巻。
亀井勝一郎
(一九〇七年―六六年)評論家。東大在学中に共産青年同盟員として活躍、検挙投獄されて転向し、自我再生の道を模索。仏教に関心を示し、著『大和古寺風物誌』などがある。
加山又造
(一九二七年―)日本画家。現代の日本画家を代表する一人。日本芸術大賞などを受賞。
嘉峪関
明代に築かれた万里の長城の西端。甘粛省酒泉の西三十五キロに位置し、明の洪武五年(一三七二年)に馮勝将軍がこの地を選んで関を設けたのに始まる。その後、城壁、羅城、烽火台が作られ、一五六六年までに二つの城楼、四つの角楼、二つの敵楼が完成。大小あわせて十三の楼閣が現存し、清代には「天下雄関」と称えられた。
河井寬次郎
(一八九〇年―一九六六年)陶芸家。東京高等工業学校を卒業後、京都に移り五条坂に鐘渓窯を築いて独立。柳宗悦を知ってその民芸論に共鳴、浜田庄司らと民芸運動に挺身した。
ガンジー
(一八六九年―一九四八年)インドの政治家。若き日にロンドン留学、弁護士資格を得て帰国。南アフリカに渡ってインド人の市民権獲得運動を指導、非暴力抵抗運動を成功に導いた。一九一五年、インドに帰国後は大英帝国の植民地支配に抵抗し、度重なる投獄にも屈せず、インド独立を達成した。マハトマ(偉大な魂)と尊称されるが、狂信的なヒンドゥー主義者によって暗殺された。
観世音菩薩
『法華経』観世音菩薩普門品第二十五に説かれている。大慈悲心の体現者とされ、衆生救済のために三十三の化身を現じて法を説くとされる。
カント
(一七二四年―一八〇四年)ドイツの哲学者。批判哲学を樹立。著『純粋理性批判』『実践理性批判』など。
漢の武帝
(前一五六年―前八七年)前漢第七代の皇帝。前一四一年に即位し、内政を確立したあと、匈奴を漠北に追い、西域から安南、朝鮮半島を経略した。
「キオス島の虐殺」
トルコとギリシャの対立のなかで、キオス島の住民がトルコ軍によって虐殺される事件が起きた。その悲劇をテーマにして一八二三年―二四年に描かれた。
伎楽飛天
さまざまな楽器を演奏しながら空中を飛行する姿が描かれている。
岸本英夫
(一九〇三年―六四年)宗教学者。東大文学部宗教学宗教史学科を卒業してアメリカに留学、ハーバード大学に学んだ。帰国後、東大講師から戦後、教授に進み、宗教学宗教史講座を担当した。一九五四年、皮膚ガンを発して手術を繰り返したが、死と直面して「死とは別れのときである」との心境に達し、その闘病記『死を見つめる心』は広く読まれた。主著『宗教学』がある。
『北国』
戦後、一九四六年から三年間に主として同人詩誌などに発表した詩を収録した詩集。初版は一九五八年、東京創元社より出版。
北杜夫
(一九二七年―)東京に生まれる。本名・斎藤宗吉、医学博士。東北大学医学部を卒業後、慶大病院助手、斎藤病院医師をつとめる。一九六〇年、「夜と霧の隅で」芥川賞を受賞。作家に転進して『楡家の人びと』『白きたおやかな峰』『輝ける碧き空の下で』など話題作を発表。『どくとるマンボウ航海記』シリーズもある。
契丹文字
モンゴル系の遊牧民族、契丹が中国の五代初期、内外モンゴル及び満州の地を併合して遼を建国したさい、十世紀から十二世紀にかけて用いた文字。
木原均
(一八九三年―一九八六年)遺伝学者。東京に生まれ、北海道大学農学部を卒業。京大教授、国立遺伝学研究所長を歴任。コムギ類の細胞遺伝学的研究を行い、理学博士。文化勲章を受章。
亀茲国
中国の新疆ウイグル自治区にある天山南麓のオアシス都市・庫車周辺に栄えた古代王国。インドから中国への仏法東漸途上の要地で、周辺にはキジル石窟など仏教遺跡が多い。
匈奴
前三世紀から後五世紀にかけて漢族をおびやかした中国北方の遊牧民族。その首長を単于と称し、冒頓単于の時代に強盛となった。前二世紀末、漢の武帝時代に東西に分裂し、さらに後漢時代には南北に分裂して勢力を弱めた。西方史料のフンと同族とされる。
玉門
甘粛省の西北部、酒泉の西に位置する石油工業都市。解放後の一九五〇年代後半に新油田が発見され、大型石油コンビナートが建設された。
玉門関
前二世紀末、漢の武帝によって河西四郡が置かれたのに伴い、万里の長城の西端に設けられた関所。現在の敦煌市から西北約八〇キロに位置する。ちなみに関の位置は、時代によって移動し、隋・唐代には現在の安西の東に後退した。
祁連山
甘粛、青海両省の境に聳える山脈。古くは「南山」とも呼ばれ、この山麓や草原地帯に月氏や匈奴など遊牧民族が活躍した。最高峰は現名・団結峰(標高五八二七メートル)で、たんに祁連山といえばこの山嶺を指すこともある。
3 クールベ
(一八一九年―七七年)フランスの画家。代表作は「石割り」「画家のアトリエ」など。
『草の葉』
アメリカの国民詩人ウォルト・ホイットマン(一八一九年―九二年)が一八五五年、初版を自費出版した詩集。初めは、たった十二篇の作品が無題のまま収録されたが、その後、版を重ねるたびに評判を呼び、死の前年に出した第九版では四百篇近い作品が収められた。みずみずしい青草の大地に生きる庶民への人間愛、新天地を求める開拓者たちの自由と民主の叫びを歌った。
クシャン朝
紀元一世紀、中央アジアのバクトリア地方から興り、やがて西北インドまで支配した古代王朝。中国の史書や漢訳仏典では「貴霜」あるいは「大月氏」と記される。初代クジュラ・カドフィセス王の後、一世紀後半にはヴィマ・カドフィセス王が立って強大となった。二世紀に入ってカニシカ王の時代、ガンダーラ地方に都を置いて版図を拡大し、大乗仏教が興隆した。
屈原
(前三四〇年頃―前二七八年頃)戦国時代に楚の王族として生まれた。讒言によって、追放され自殺した。愛国の正義の人として知られる。
鳩摩羅什
五世紀初頭、中国に来た西域の翻訳僧。原名はクマーラジーヴァといい、羅什三蔵とも呼ばれる。インド出身の貴族を父とし、亀茲国王の妹を母にクチャ(庫車)で生まれた。七歳で出家し、九歳の時に北インドの賓国に留学。帰国の途次、西域で須利耶蘇摩と出会い、大乗に転じる。四〇一年、後秦王・姚興に迎えられて長安入京、念願だった『法華経』など多くの大乗仏典を漢訳した。
クメール
カンボジア住民の大部分を占める民族。言語はビルマ語系で、仏教徒が多い。古くはインドシナ中南部を中心に統一王国を形成、十二世紀にアンコール・ワットおよびアンコール・トムを建設した。
クラーク
(一八二六年―八六年)アメリカの化学者、教育家。北海道開拓使に招かれ、一八七六年(明治九年)に来日。札幌農学校の教頭になり、内村鑑三や新渡戸稲造ら当時の学生に深い影響を与えた。
黒田清輝
(一八六六年―一九二四年)洋画家。鹿児島生まれ。フランスに渡り、コラン等に学ぶ。帰国後、白馬会を創立。フランス印象派の外光描写の風を伝えた。
化城の譬喩
一人の導師が人々を率いて宝処に向かった。道は険悪で、非常に遠かったので、人々は疲れ、引き返そうという人さえあった。導師は一城を化作して人々を休息させ、元気を取り戻させてふたたび進み、ついに宝処に至らしめた。宝処は法華経、化城は爾前権教に譬えている。
月牙泉
敦煌南郊、鳴沙山中にある三日月形の泉湖。史書によると、三千年来この泉の水は涸れたことがないという。
元寇
鎌倉時代、中国の元軍が二度にわたり日本に来襲したこと。一二七四年(文永十一年)、元軍は壱岐、対馬を侵し博多に迫ったが敗退。続いて八一年(弘安四年)にも来襲したが元軍は大敗。蒙古襲来ともいう。
玄奘
(六〇二年頃―六六四年)唐代の翻訳僧。三蔵法師とも呼ばれ、のちに『西遊記』のモデルとされた。国禁を犯して長安を旅立ち、西域諸国を経由してインドに達した。帰国後、漢訳した仏典は一説に七十六部千三百四十七巻にも及んだ。