Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 美と創造の世界  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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1  敦煌美術の特色
  池田先生は敦煌の仏教美術の特色をどのように見られていますか。
 池田 そうですね。私の見方は全体観ではありませんが、敦煌の仏教美術を、インドの仏教美術の流れから見ていくと、興味深いと思います。ご承知のとおり、インドにおいては釈尊の滅後、長い間、釈尊の像が具体的に表現されることはありませんでしたね。その代わりに、菩提樹とか、華を散らした台座などを釈尊の象徴として示していました。その理由は、種々考えられますが、一つには、釈尊の説いた初期の仏教の考え方に起因すると思います。初期仏教の重要な思想の一つに「諸行無常」という教えがあります。これは、人間存在や宇宙・自然の諸々の事物は、いつも変化しつづけて“常無き”状態である、という意味です。
 この考え方からすれば、釈尊が涅槃に入った直後の仏教徒たちは、釈尊がどれほど敬愛する偉大な師であっても、否、逆に敬愛すればするほど、釈尊の教えに忠実であろうとしますから、釈尊の姿を具体的に彫刻や絵画に表現することは遠慮したのだろうと推測されます。
 というのは、釈尊といえども、その姿だけを見れば諸行無常の存在であるがゆえに、一瞬一瞬変化しつづけてとどまることがなかったわけで、どの瞬間の釈尊を表現するのかということになるからです。また、釈尊を変化しない像として表すことによって、見る人に固定化したイメージをあたえてしまう危険性もあったからではないでしょうか。
  ええ、初めはそうでしたね。
 池田 ところが、時代の進展とともに、そのような考え方にも大きな変化が生じてきます。と言いますのは、釈尊が亡くなって数百年もしますと、生存中の釈尊の姿や声の響きなどに、直接的に接した弟子たちもいなくなってしまうからです。そうなりますと、人間の心理の当然の動きとして、ますます激しく仏陀である釈尊への思慕の念がわき上がってくるわけです。同時に、仏陀・釈尊とはいったいいかなる存在であったか、という哲学的な思索もなされてきます。こうした機運のなかから、仏陀には永遠なる側面と、無常なる側面とがあるとの考え方が出てきます。たしかに、無常なる側面である仏陀・釈尊の肉体は、滅したけれども、釈尊が悟った宇宙森羅万象の真理(法)そのものは永遠である、というようにです。そして、この永遠なる側面の仏陀を、ますます思慕するようになって、これを何とか表現化したいという希求があったのでしょう。仏像や仏画を創造したいという願望は、いやがうえにも高まってきたのではないか、と思われます。
 また、それとあいまって、大乗仏教の時代となって“大乗”(大きな乗物)の名のとおり、より多くの在家大衆が、仏教へ帰依、帰信するようになりますと、衆生教化のためにも、さらには当時の人々の渇仰の帰趨としても、「仏」のイメージを喚起するために、仏陀・釈尊の像を具体的に表現する必要に迫られたように考えられます。以上のような、さまざまな条件が重なって、ついに釈尊の像や画を造形化する時代が登場するわけです。
 もっとも、私どもが信奉する、大乗仏教の真髄である日蓮大聖人の大仏法においては、信仰の対象の本尊としては、イメージや映像の結晶である仏像や仏画ではなく、より本源的に、文字の御本尊です。それは、あえて言わせていただけば、御本仏日蓮大聖人の智慧の最高・尊極の表現であられる、ということです。この点で、従来の仏教の本尊とは、根本的に異なるのですが、ここはあくまで敦煌の仏教美術に関する話題ですので、これ以上の論議はさしひかえさせていただき、話をもとに戻します。
 まず釈尊の肖像を造形化したのは、ガンダーラ(現在のパキスタン西北部のペシャーワル地域の古名)のクシャン朝時代の人々でした。彼らはヘレニズム文化の影響下に、釈尊の像をリアルに表現しました。仏像が初めてインド亜大陸に出現したのは、一世紀末あるいは二世紀初めといわれていますね。
 このガンダーラ仏につづいて、インドのマトゥラーで作られた仏像が、インド各地に見られるようになりました。さらに西域、敦煌へと仏教が伝来していくなかで、表情、姿がそれぞれの地域の風土、民族性、文化を反映して変わっていきます。
 敦煌の場合は、北涼(三九七年―四三九年)から元(一二七一年―一三六八年)の時代にいたる、千年あまりにわたって造営され、しかも、さまざまな文化を背景にしていただけに、それぞれの壁画等が、時代の特色を映しだしているという点でも貴重なものですね。タテには千年の歳月。ヨコにはインド、チベット、西域諸国、中原という広がり。こうした時間的な長さと、空間的な広さにおいて、敦煌は、仏教美術史のうえからも、非常に高い文化的な価値があるといってよいでしょう。
 敦煌美術の表現の対象は、いうまでもなく、仏、菩薩、仏教経典の内容が中心となっています。それらは自然の風景や人間の美をとらえた芸術と比べて、よりダイレクトに永遠なるものへの畏敬、そして祈りから生まれた芸術といえるでしょう。
  敦煌の作品は、画工たちが心の底から創りだしたものです。それに敦煌美術は、画工たちの創意性が生みだしたもので、壁画を見ても、まったく同じものがありません。たとえ同じ経文の内容を描いたものにしても、画工たちは自分の創作力、想像力でまったく異なった作品を創りだしています。
 池田 敦煌美術においては、現実の不幸から脱していくことを祈ったり、平穏な生活、安らかな死への願望から創造されたものが多く見られました。表現された世界は、架空のものであったり、現実社会とはかけ離れたものも少なくありません。画工たちが創造した仏、菩薩の芸術は、威厳を備え、慈愛や優しさにあふれて、圧倒的な大きさをもっています。また浄土は、彼らの想像力が及ぶ限りに華やかで豪勢に描かれています。敦煌美術は、こうした想像力から生みだされた、画工たちにとっての理想的な存在や場所の表現でもありました。
 それとともに、供養者たちの姿は、写実的に正確に表現されており、当時の衣装、生活などを知る資料としての価値もあります。経典の内容を説明する絵、仏教説話の絵にも人々の生活が描かれています。想像と写実、架空の世界と生活の現場、こうした二面性をもち、しかも、それらが一体になった、人間味のある芸術が敦煌美術の特色の一つといえるのではないかと私は思います。
  第六一窟の五台山図にしても、すり臼をひく人が描かれたり、山に登る人、遊んでいる馬などを創作して随所に創意工夫を見ることができます。
 敦煌の作品が、今日なおみずみずしいのは、画工たちが心で、魂で創作したからだと思います。心の底から生みだした創造的な力は、にせものではありません。真の芸術作品は千数百年を過ぎたとしても、人々に感動をあたえる力は衰えないのです。長い歳月を経過して、今日も影響力があるというのは、作品が強い生命力をもっているからです。
 歴史上、たとえば宮廷のなかの芸術品のように、絢爛豪華な作品も多くありました。しかし、それらのほとんどは、人々にあまり感動をあたえませんでした。
 芸術品には、絶対的な価値と相対的な価値があります。時代によって、そのときのさまざまな利害関係のからみで、または宣伝効果によって、すばらしい芸術作品だともち上げられるものも少なくありません。
 しかし、本当の価値のないものは、時の流れとともに、人々の関心も薄れ、だんだんと忘れられていきます。これは相対的な価値にすぎません。
 一方では、生きている間は無名の芸術家だった人の作品が、死んだ後に識者に発見されて、百年、千年にわたっても、貴重な芸術品として認められ、伝えられていくものもあります。このような芸術品には、絶対的な価値が備わっていると思います。
 心の底から生みだされたものは、すべて価値があると私は思います。表面だけ見ると、美しく見える芸術品にしても、よく見るとにせものだとわかる場合もあります。
 ある文学者がこう言っていました。「大衆に媚びるような作品は、本当に良い作品ではない」。良い作品は、その作品に内在しているものが、本当に価値のあるものかどうかで判断されるものなのです。
 池田 今、先生は、芸術作品に絶対的な価値と相対的な価値とがある、と言われましたが、これは人生と社会のあらゆる次元に通ずる重要な示唆を含んだお話です。借りものではない、また、ただ目先の利害のためのものでもない、永遠を志向する人間の奥深い魂から創造された仕事は、芸術に限らず、朽ちることのない真金の輝きを放っていくにちがいありません。
 と同時に、二十世紀の現代を生きる常先生が、遙か昔の敦煌の仏教美術に深い価値を見いだされ、その復興に精進してこられたからこそ、今、多くの人々が価値ある魂の表現に邂逅し、その美の乱舞を心おきなく享受できる。つまり、魂の底から創作された真正の芸術は、その作品にすばらしい価値を見いだす人との時を超えた“出合い”を得たとき、さらに輝きを増していく。この出合いが、芸術家の生存中に生まれるという幸運なこともあれば、芸術家が没して数世紀の後、ということもあります。
 その時空を超えた魂と魂の共鳴に、私はまさに芸術というものの“妙”というか、神秘さを感ずるのです。洋の東西を問わず、芸術史上において、そうしたすばらしい魂と魂の出合いが見いだされます。敦煌仏教美術と先生の出合いも、まさにその美しいドラマです。
 ところで、美の絶対的な価値を創造した画工たちは、創意の源泉をどこから得ていたとお考えでしょうか。
  絵を創作する原動力は、二種類あります。一つは精神的なものです。信仰心から、絵を描く行為によって、内心の満足が得られたり、または罪障を消滅し成仏できると信じていたのかもしれません。もう一つは物質的なものです。生活のために画匠として雇われ、絵が上手に完成すれば金がもらえるということです。
 いずれにしても、敦煌芸術においては、創意の源泉は宗教にあるかもしれません。画匠は多分、信仰者か、信仰心をもっている者です。もし仏教を信じていなければ、敦煌壁画のような作品は絶対に生みだせないと思います。
 池田 私が対談したフランスの美術史家のルネ・ユイグ氏は「芸術と宗教は、人間に働きかけて、人間が自己自身を超えて、予感はされるが未知の、そして自ら見ようとしないかぎり、姿をあらわすことはない一つの実在に向かう同じ道を進ませる」(『闇は暁を求めて』)と述べています。すなわち宗教と芸術とは本来、自己自身を高め“一つの実在”へと、人間を向かわせる働きがあることにおいて、共通のものを有しているということでしょう。
 このユイグ氏の言葉に対して、私は「人びとの心に語りかけ、働きかけるところに、真の芸術と宗教との共通性があり、芸術のなかに、本来、宗教的情感の一つの表現がみられる」と述べました。
 敦煌の無名の画工たちが、生活や環境に恵まれないなか、あれだけの絢爛たる仏教美術を残すことができたのは、先生の言われるとおり、ひとえに画工たち一人一人の胸中に、宗教的情感が脈打っていたからであると考えられます。
 敦煌の画工たちは、生来の芸術的才能や造形的天分のうえに、仏教の信仰によって、創造性の根源力を、自分の中から引き出しつつ、創作活動に向かったわけです。
 また、芸術の歴史を振り返ってみると、その作品の多くは、支配者や裕福な人々に捧げられたものでした。王や貴族たちの栄光のために、彫刻が彫られ、絵画が描かれてきました。一方では、教会や伽藍(寺院)のための宗教芸術も盛んでしたが、民衆はそうした権威の下にありました。西洋の絵画史をひもとくとき、長い間、神々や王や特権階級が、その主人公でした。
  そのとおりです。
 池田 絵画や彫刻の主題は、キリスト教の教典に説かれたものが圧倒的に多く、世俗的な主題にしても、古代ギリシャ神話や、ローマの英雄たちの物語、寓話などに基づくものでした。しかし、十六世紀のフランドル地方の農民の生活や風俗を描いたブリューゲル、十七世紀のフランスで庶民の生活を描写したル・ナン兄弟たちの作品に見られるように、次第に庶民そのものを主題にする芸術が登場します。十七世紀のオランダでは、市民文化の開花が見られ、フェルメールらの作品を生みだしました。
 近代市民革命によって、主権者が代わることによって、芸術は、より広く人々に解放されました。十九世紀に入って、農民を描いた名画「落穂拾い」などのミレー、社会の底辺に生きる貧しい庶民を表現したドーミエ、「石割り」で有名な写実主義のクールベらの画家があいついで現れます。プルードンが、クールベの「石割り」を「最初の社会主義的絵画」と呼んだこともよく知られています。
 社会の変革による民衆の地位の向上と、こうした先駆的な仕事によって、民衆が芸術の主人公になる時代が次第に築かれていきました。
 このような流れのなかで敦煌芸術を見るとき、それは支配者や富裕な人々に捧げられたという面をもつ一方で、描いた無名の画工たちの生活と憧れなどが反映しており、いたるところに庶民の生活が表現されているのを見いだせます。私はこうした庶民性、民衆性にも注目したいと思います。
 常書鴻先生は、敦煌莫高窟の遺産に出合って、その芸術の民衆性に感動され、自身の芸術観が大きく変わったとうかがっています。
  私は画学生のころ、「芸術は芸術のための芸術」という考えをもっておりました。フランス美術でも民衆の芸術を重視する伝統はありませんでした。しかし、敦煌に行って民衆芸術に深い感動をおぼえました。芸術は民衆に奉仕するものだと思いました。敦煌芸術は、民衆の手による民衆のための芸術だと信じています。
 それ以来、私は芸術的創造は民衆に奉仕するものでなければならないと思っています。ゆえに自己の考え方、理想を芸術のなかに表現し、民衆に捧げ、民衆のために貢献していくことが大切だと思います。
 池田 千鈞の重みがある言葉です。確かな行動の裏付けのある言葉こそ尊いからです。かつてフランスのサルトルが「百万人の飢えた子どもにとって、いったい文学に何の意味があるか」(一九六四年四月「ル・モンド」紙のインタビューの要旨)との問いを発したことがあります。それは、文学を含む芸術と民衆、そして芸術と人生の現実とのあるべき関係についての鋭い問題提起でもありました。
 文学や芸術が、社会や民衆のために、いかなる役割を果たせるかという問いは、「人生のための芸術」を端的に主張しているようにも思われます。
 もちろん、一方には「芸術のための芸術」(平井博『オスカー・ワイルドの生涯』松柏社)――つまり文学のオスカー・ワイルドやボードレールに代表される“芸術はただ芸術そのもののために創作されなければならない”という議論もあります。
 ただ、そうした難解な芸術論はともかく、芸術は民衆の心の昇華に真髄があることを忘れてはならないでしょう。やはり「何のため」という原点への問いかけがあってこそ、より大きな価値を発揮することができると思います。その意味からも、「芸術的創造は民衆に奉仕するものでなければならない」との先生の言葉に私は共感します。
 そこで先生ご自身の胸中において、民衆と芸術を結ぶ、いわば中心点は何かをうかがいたいのですが……。
  私は民衆を愛しています。民衆は創造的力と多くの困難を克服する力をもっています。私にとって、その中心点は、芸術をとおして民衆と芸術に対する心の中の熱烈な愛情を表現していくことだと思います。
2  芸術の役割と評価
 池田 次に、芸術作品の価値を評価することのむずかしさについて、ここで触れておきたいと思います。すばらしい芸術作品として、今日広く認められているものも、それが描かれた当時は、人々から受け入れられず、罵倒の対象になったものが多くあります。ルーブル美術館に所蔵されている作品でも、そうした例が少なくありません。
 印象派の画家たちの多くもそうであったし、美術史に登場する先駆的な仕事をした人々も、不遇のまま生涯を終えるということがしばしば見られます。近代芸術においても、そうした生前は無名の人々が、歴史に残る創造的な仕事をしている例を多く見るのですが、古代芸術史を飾る仕事は、ほとんどが名前さえ残っていない人々の手によるものでした。敦煌の画家たちもそうでした。
  現代では一般の多くの人は、絵を見ても、それを「だれ」が描いたのかをまず見ます。その作品が「人にあたえる作用、人にあたえる感動」をあまり問題にしません。「だれ」がわかると、次にその人物は、有名であるかどうかを問題にします。つまり絵が商品になっているのです。しかし、古代の芸術は、商品のための芸術ではありませんでした。人に感動をあたえるために創作されたものでした。
 現代においても、本当は、まず、その作品が人々にあたえる感動が強いか弱いかを判断することが大切で、「だれ」が描いた、その画家の値段はいくらぐらいといった判断を先にしてはいけない。当然、自分が好きな画家、そうでない画家もいますが、そうした好き嫌いを判断基準にしたり、普遍的な価値観と思ってはならないと思うのです。
 池田 絵画に限らず、何が本当に人間にとって大切かが忘れられつつあることは残念です。
 いくら私たちのまわりに美しいものがあっても、肝心の自分の心の眼が曇ったレンズのようでは何も見えない。つまり、自然が生みだす花や草木、動物たち。自然が造り上げた景色。あるいは人間の姿形。人間が創造したもの。それらをどう感じとるかは、その人の内面の投影といえるでしょう。まことに心とは微妙にして、かつすべてを決定していく不思議な実在といえます。
 今まで美しいと思っていた景色が、苦しみや、深い悲しみのときには、美しいものとは映らないこともある。日常見なれた風景が、大病をした人には、まるで違って見える場合もある。余命を大切に生きようという自覚のなかで眼に映る光景は、普段まったく気づかなかった美しさとなることもある。反対に美しいと思ってきたものが、虚ろな心に空虚で、無意味、無価値なものとしか感じられないという人もいる。
 つまり美しいという感情の発現は、その人の感性だけでなく、境涯、置かれた環境、精神状況などによって、一人一人、違っています。美術作品に対しても同じことが言えると思います。芸術家も自分が見つめたものを、感じたものを、あるいは表現したいことを、形あるものに作り上げていきます。こうして創造された芸術は、創造者の人間性、感性、置かれた環境、境涯などを反映しています。
 私たちの時代においても、大いなる精神の飛翔がなければ、大いなる芸術の創造も、また、それをはぐくむ豊かな土壌も作りえないのではないでしょうか。
 先生が言われたように、ただたんに物質的な報酬のための作品もあるかもしれませんが、不便な環境のなかで、壁や天井のいたるところに描き出され、塑像として造形された膨大な敦煌芸術には、信仰心に根差したひたむきさ、永遠なるものへの祈りと憧憬の心がこめられていると思います。
 私が敦煌芸術を大事にしたいと思うのは、文化の中心地から遠く離れたところで、多くの名もなき芸術家たちが残した膨大な作品のなかに、そうした本物の価値をもつ作品があるからです。また、戦争や政治を中心につづられた歴史では光の当たらない砂漠の一角で、文化の創造、美の創造を、営々とつづけてきた無名の人々への共感もあります。
 自然があたえている美の世界に対して、芸術作品は人間の力で創造された美の世界です。そうした空間が、シルクロードのなかに築かれて、作品をとおして、現代を生きる人々に、温かな心で語りかけ、遙かなる美の光彩を伝えてくれることを、大切にしたいという思いが私には強くあります。
 ところで芸術作品の評価もそうですが、古今東西、他の分野でも、その価値が正しく認識されなかったり、先駆的な仕事が、批判中傷されるようなことが多くあります。私はかつて、この歴史の教訓を、創価大学で「迫害と人生」というテーマで講演(=本全集第1巻収録)したことがあります。
 歴史上に偉大な足跡を残した人々の生き方を考察しつつ、青年たちに、真実を鋭く洞察しゆく眼をもってほしい、また長いこれからの人生の旅路にあって、強く生きぬいていく一つの糧になればとの心情から語ったものでした。そのなかで、中国の楚の詩人・屈原の生涯についても話しました。彼の「余が心の善しとする所 九たび死すといえども 猶未だ悔いず」(『屈原詩集』黒須重彦訳、角川書店)との言葉は私もたいへんに好きな言葉です。
  屈原は私も尊敬する詩人です。
 池田 屈原は、阿諛諂佞の側近の讒言によって王から追放されたとき、「心を屈して 志をおさえ 追放のとがめを忍んで 恥に耐えよう 清廉潔白を守り 正義に殉ずることこそ 古の聖人の深く教えたもうたところ」(同前)と痛恨の思いで後世に詩を残しました。また、その意味で司馬遷も忘れられない人物です。司馬遷は志を完成させるために、ありとあらゆる屈辱を忍んで生き延びて『史記』を残しました。
 絵画の世界では、たとえばセザンヌの一生、これは本当は常先生からうかがうことですが(笑い)、セザンヌはマティスが「セザンヌはわれわれすべての父である」(ジョン・ラッセル原著『マティス』中原佑介監修、タイム・ライフ・インターナショナル)と言ったように「現代絵画の父」として歴史に大きな足跡をとどめました。しかし、その生涯はほとんど世間の無理解と嘲笑と侮辱のなかにありました。第一回の印象画展に出品した作品は「錯乱に動かされて描く、一種の狂人のように」(アンリ・ペリュショ『セザンヌ』矢内原伊作訳、みすず書房)とまで酷評されました。
 「ヴィクトル・ショケの肖像」に対しては「狂人が狂人を描いたような絵」(『世界美術全集』教育図書出版 山田書院)という批評が書かれていますね。しかし彼は頑固なまでに自己の信念を貫きつづけました。
 このほかレーニン、ガンジーなどの生涯を見ても、じつは苦難こそ、人生を闇から暁へ、混沌から秩序へ飛躍させていく回転軸となった。人間はそのなかでこそ輝いていくことができる――。
 中国の「文革」(文化大革命)の時期などのさまざまな困難については、多くの方から、うかがっておりますが、そのなかで魂を鍛えた人たちが、新しい創造の道を開いていくならば、必ず芸術の世界でもすばらしい成果がもたらされることでしょう。
 そこで、すでにうかがいましたが、常書鴻先生もたいへんな労苦のなか、道を開いてこられた。この間、ご自分を支えてきた内的な力はどのようなものでしたか。
  留学に出発する当時の私の心情は、とにかく人の上に出て、祖先の名を上げようといったものでしたが、フランスに行って、私の目標は次第に自分のため、ということから民族、国家のために努力していこうという意識革命がありました。
 敦煌にいる間に、この民族意識と仏教の影響を受けていくなかで「敦煌芸術は中国の文化伝統であり、命を捨てても守らなければならない。どんな困難に直面しても、克服しなければならない」という使命感が芽生えました。この使命感が、すべての困難な時期に私を支えてくれました。その後、周恩来総理がずっと守ってくださいました。
 困難な時期のなかでも、中国の歴史上、最大の災難といわれる文化大革命の時期のことは簡単には語ることはできません。この間、どんなに迫害を受けたか。どんなに侮辱されたか。私と私の伴侶と家族が、どのように困難と戦い、勝ったか。これを語るには長い時間がかかります。この質問の答えはこのへんまでにしましょう。
 パリでペリオの『敦煌石窟』の図録を見てから、私の運命は敦煌と結ばれてきました。以来、半世紀の間に、一家離散や迫害などの苦杯を嘗めてきました。
 しかし、人生の最後の段階にいたったとき、私は「今まで自分が選んだ人生は間違っていなかった」と言いきれると思い、一度も後悔をしたことはありませんでした。
 ただ、半世紀が過ぎるのが、あまりに早かったという思いはあります。敦煌の研究と保護には、まだたくさんやらなければならない仕事が残されています。
 かつて池田先生から「もし今度、ふたたび、人間に生まれてきたとき、どんな職業を選びますか」と聞かれたことがありました。私は仏教徒ではありませんので「転生」は信じておりませんが、でも、もし、本当に人間に生まれることができるならば、私はやはり「常書鴻」を選んで、未完成の仕事をつづけていきたいと思います。
 池田 よくわかりました。またよくわかります。
 さて中国美術の近代の流れも、いくつかの変遷を経てきましたね……。
  清末から今日までの動向を六段階に分けてお話しいたします。第一段階は、清朝末期、留学生を西洋に派遣して、西洋画の技術を習得させた時期です。彼らは帰国後、宮廷内で西太后の肖像画などを描きました。
 第二段階は、一九三〇年代ごろ、徐悲鴻氏を中心とする私たち青年画家が、海外に留学し、西洋の絵画技術を中国にもって帰ろうとしました。これらの人々は、ほとんどが三〇年代中に帰国しました。彼らは国立芸術専門学校で教鞭をとりました。私もそのなかの一人でした。私は西洋画を教えました。中国画は斉白石を中心に行っておりました。私たちは同じ学校で、中国画と洋画が、ともどもに発展、普及していくように努力しました。中日戦争の時期、私は重慶にいました。しかし、美術の創作と研究は、ずっと継続しておりました。
 第三段階は、新中国の成立後です。美術も発展しましたが、外国の美術では、フランスよりソ連の美術が重視されました。とくに徐悲鴻氏が逝去されてからは、その傾向が一層強まりました。中国の水墨画においては、過去の伝統を継承することに重点が置かれて、新しい革新的な芸術は見られませんでした。中国革命博物館、歴史博物館、人民大会堂等の建設に合わせて、中国美術界にたくさんの作品が生まれました。この時代は美術創作の大きな高まりが見られた時代です。
 第四段階は、文化大革命の時代です。この期間は災難の年代でした。政治的な原因で特殊な作品を創作しなければなりませんでした。
 第五段階は、文革後、一九七八年(昭和五十三年)に初めてフランスの風景画展を行ったとき、中国美術界にはたいへんな反響がありました。その展示は初めて系統的に、フランスの名画を、時代の古いものから現代画まで紹介したものでした。以来、中国美術界はふたたび西洋の美術に注目するようになりました。
 そして第六段階の現在は、開放の時代に入りました。世界各地から多くの美術資料が中国に紹介されるようになりました。若い画家たちには、今まで勉強する機会があまりなかったので、まだ実力が欠けています。年配の画家たちは若い画家に対して物足りなさと不満があります。しかし、青年画家たちは自分の風格を新たに創りだそうと懸命に努力しています。中国の政治、経済と同じように中国美術界も変革の時期を迎えています。これから、より優れた、より深みのある作品が期待できると思っています。
3  徐悲鴻氏の人間性
 池田 常先生は、現代中国絵画の大家である徐悲鴻氏から大きな励ましを受けられたと聞いておりますが。
  先生は、私が敦煌に行くことに対して「『虎穴に入らずんば、虎子を得ず』。本当に敦煌を認識したければ、また本当に中国の古代文明を認識したければ、みずから敦煌に行く以外他に道がない。唐の玄奘三蔵法師のような苦行の精神をもって、敦煌の民族芸術宝庫を保護し、整理し、研究し、最後まで頑張ってください」と激励してくれました。
 また重慶の私の個展に、わざわざ次のような序を書いてくれました。
 「油絵が中国に入ってから、小生はその普及に力を入れてきた。とくに最近の七、八年間には、芸術界にも(油絵が)頭角を現し、素晴らしい発展をみせている。というのは、この間、英才が輩出し、彼らは海外で芸術の衰微を目撃する一方、祖国では、その復興の時が迫っていると感じている。心に大志を抱き、心あるものは皆挺身して立ち、大業をともに担っている。常書鴻先生はその一人であり、芸術界の雄である。
 常先生はパリに十年近く留学している。師匠は古典主義大家のローランスである。常先生は、帰国前に全作品を集め、パリで展覧会を開いた。わが友のカミーユ・モークレール先生が、文章でその作品を称えた。
 モークレール先生は、今日、世界で最も偉大な文芸評論家であり、彼は簡単に人を称えることはしない。フランス国立外国美術館は、常先生の作品を所蔵に加え、展示している。これは中国人が海外文化界で得たまれな成果である。常先生は勤勉に絵を描き、その作品は常に人々から競って求められ、集めることが難しい。
 今回は西北に赴くために、最新作の人物、風景、静物画等四十枚余りの油絵作品を出品している。すべてが素晴らしい作品である。抗戦(抗日戦争)以来、陪都(重慶)の人々のなかには、文物を好む方が増えているが、常先生のこの展覧は、必ず皆様に新天地をみせてくれると確信する。
     壬午中秋無月 悲鴻序」
 そのほかに徐悲鴻先生は敦煌に行く記念として私に「五鶏図」を贈ってくれました。
 池田 「現代中国絵画は徐悲鴻に始まるといえる」(鶴田武良『近代中国絵画』角川書店、参照)といわれるほど、その足跡は大きく、中国絵画史に残る業績も輝かしい。それとともに、人格もすばらしい方だったことがよくわかります。
 一流の芸術家は人間性も光っています。その磨きぬかれた人間性が、芸術を深いものにしている。多くの優れた芸術家にお会いしての私の実感です。
 徐先生が、後輩の常先生に示された心くばりには、美の世界に生きる同志への深い思いやりがあふれています。また、そういう方だったからこそ、常先生の絵の価値と美、志を曇りなくわが心の鏡に映せたという気がいたします。先人が後につづく人のために、こうした思いやりにあふれた行動をとっていけば、未来はより豊かに、より輝かしいものになっていくことでしょう。「東」と「西」の融合という点でも、徐悲鴻先生の貢献は、たいへんに大きなものでした。

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