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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 永遠なるものを求めて  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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1  苦難の旅路
 池田 一九四二年(昭和十七年)の冬、常先生はだれも引き受け手がなかった「国立敦煌芸術研究所」の仕事を承諾され、敦煌へ向かわれました。そして今日まで、「シルクロードの宝石」を蘇らせよう、との若き日の夢に生きぬいてこられた。敦煌芸術のすばらしさもさることながら、常先生の人生そのものに、私は限りないロマンを感じます。
  愛国知識人の呼びかけと、国民党元老の于佑任先生の提案により、一九四二年に、国民党政府が敦煌芸術研究所を設立することを決めました。しかし、その人選がとてもむずかしかったのです。というのは、敦煌は西の端に位置しており、遠くてだれも行こうとしなかったからです。
 古代歌謡に、
  「出了嘉峪関 両眼涙不乾
   前看戈壁灘 後看鬼門関」
 (嘉峪関を出づれば 両眼涙乾かず 前を看れば戈壁灘 後を看れば鬼門関――嘉峪関を出ると、両眼から涙がとまらない。前方にはゴビ灘、振り返ると、冥土の関所がみえる)
 とうたわれていますが、敦煌はこの嘉峪関より四百キロも西にあります。土地が荒れ果てて、耕地のないところです。古代は流罪や、辺地の苦役につかせるところでした。だれもが行きたくないところです。
 著名な建築学者である梁思成先生に敦煌へ行くという決意を話したとき、先生は賛成し「君はきっとこの機会を逃しはしないと私はみていた。私も体さえ自由なら本当に行きたいのだが、この年ではね。君の成功を祈るよ」と言ってくれました。
 人家が密集している大都会から離れ、ゴビ灘の奥深くまで行くということは、人間世界を離れて行くという感覚でした。前途多難であるということは覚悟しました。しかし、敦煌という砂漠のなかの宝島が私をとりこにし、魅了しました。祖国の文化への愛情と憧れがありました。愛国心のある知識人として、どんな困難があろうとも、決して一歩も退かない決意でした。
 池田 「千里に適く者は、三月糧を聚む」(千里の旅に出る者は、三カ月前から食糧を集め、用意をする)という言葉がありますが、実際に出発されるまでには……。
  「国立敦煌芸術研究所」の設立準備を引き受けてから敦煌へ赴くまでには、かなりいろいろなことがありました。
 まず、前の妻の“関門”でした。彼女はフランスに留学し、彫刻を専門に勉強していました。私と結婚して祖国に帰ってから、私が敦煌に行くことに対して、彼女は祖国の芸術研究のためであればと、別に異議はありませんでした。
 しかし、私が研究所の設立準備を引き受けるということは、ずっと敦煌にいなければならないということで、話がまったく違ってきました。このために私は家庭と事業の間で板挟みになってしまいました。
 けれども私はいったん決めたことには、絶対に退くことのない性格です。ようやく家族を説得して出発することになりました。
 一九四二年(昭和十七年)の冬、重慶から飛行機に乗って豊かな美しい四川省の緑の大地を離れ、見渡す限り黄砂一面の西北高原に向かいました。片方は繁華、一面の緑。片方は寂然、一面の黄砂。脳裏に闘争が始まりました。
 このまま一生、黄砂とともに終わってしまうのか。だが、黄砂の彼方に私は輝く宝珠を見いだしました。私は唐代の美しい絵画、パリで見た「父母恩重経」のシルク(絹)絵のなかの自由に空を飛び舞う飛天と、優しく美しい観世音菩薩の姿に憧れていました。
 砂漠に輝くこの真珠への思いが、私の心の中の葛藤を克服しました。それから私はパリのモンパルナスの画家ではなくなり、敦煌芸術を研究し、保護する苦行僧に生まれ変わりました。
 池田 感銘深いお話です。重慶から飛行機で甘粛省の蘭州に到着されてから、その先の旅も遠かったでしょうね。現在では、北京から敦煌まで飛行機で行けるようになり、ずいぶん交通の便が良くなりました。しかし、数年前までは、それでも北京を朝発って蘭州に一泊し、翌日また飛行機に乗って、やっと敦煌の空港に着いたそうですね。
 じつは創価学会のドクター部の代表団や、私の創立した創価学園の教員代表団も敦煌に行きました。私の二人の息子も学園の教員で、その一員に加わったのですが、彼らが行ったときは、蘭州から酒泉まで飛行機で二時間半。酒泉からはバスで八時間。やっと砂漠の遙か彼方に、小さな緑に覆われた場所を発見したときは、大きな感動があったようです。間もなく日没が始まり、すばらしい夕焼けが大空を真っ赤に染めあげた。それは幻想的な光景だった、と語っておりました。
 蘭州と敦煌間の飛行便が開かれる以前は、鉄道と自動車で行くにしてもたいへんな距離です。蘭州から安西までの距離が約千キロ余り。安西から敦煌までは約百二十二キロ。シルクロードの往時、安西から敦煌までは馬や駱駝に乗って三日二晩の旅だったそうですね。
 井上靖氏は、小説『敦煌』を執筆してから約二十年たって、一九七八年(昭和五十三年)に初めて敦煌を訪れたそうですが、北京を発って五日目に敦煌に着かれています。そのときの感慨は「やはり敦煌は都から遠いということであった。西域史に出てくる辺境の町という印象は、そのまま今も生きている」(「敦煌と私」)というものであったようです。常書鴻先生が蘭州から敦煌に向かって出発されたのは、一九四三年(昭和十八年)二月のことで、日中戦争のさなかでした。また道路も今のようには整備されていませんでしたね。
  蘭州から敦煌までの道程を振り返ってみると、それはとても辛く、しかし、また、とても面白い旅でした。一九四三年、蘭州で正月を過ごした私たちは、敦煌へもっていく必需品等を準備し、一行六人が大きなトラックに乗りました。そのトラックは、現地の人がソ連と羊毛で交換してきた古い型のもので、一般には「羊毛車」と呼んでいました。
 中古なので、乗っている間に、よくエンストを起こしました。そのつど、皆が車から降りて、大きな鉄パイプでトラックのエンジンをかけなければなりません。走っているときは、寒風がヒューヒューと頬をこすって、両耳は寒さで感覚がなくなり、とても痛くなるときもありました。朝早く出発すると、帽子のふちと眉毛に霜が張る。全員のほっぺたが真っ赤になっています。
 途中で昼食をとるために下車すると、足がしびれて、しばらく動かしてから、やっと歩けるようになります。足の血液循環が悪くなっていて、下車後、すぐには歩けませんでした。最初の昼食は氷登(甘粛省蘭州の北西)でとりました。道端の小さな店でした。そこには机がなく土の台を机がわりに使っていました。椅子は板に四つの脚をくっつけただけのもので、ペンキも塗っていませんでした。でも長年使っていたので、茶色になっていました。
 店の人は、外地から来た私たちに、特別にラーメンをつくってくれました。これが上賓をもてなすメニューでした。ラーメンのほかには、塩一皿、酢一杯、油いため一皿しかありませんでした。
 でも朝から何も食べていませんでしたので、とてもおいしく感じました。昼食後にガソリンと水を補給して、私たちはふたたびトラックに戻って出発しました。上りの坂道なので、トラックはゆっくりと揺れながら登っていきます。食後の私たちは荷物の上で気持ち良く眠ってしまいました。
 ときには、大きな石や小さな溝のため、トラックが大きく揺れることがあります。そのときは車外に飛ばされる危険性もありますので、私たちは居眠りしながらも、必死に荷物の縄をつかんでいました。次の休憩になると、足がしびれているだけでなく、手まで真っ赤になって腫れてしまいました。
 日が暮れると、周囲は見渡す限り人家はなく、寂しい荒野には、ポツンとさびれた寺しかありませんでした。それ以上、この日は進めないので、私たちはこの寺の中に泊まることにしました。
 蛇や毒ムカデが出るのではないか、と皆が心配しておりましたが、心の優しい運転手が安心させてくれました。彼は「西北黄土高原には蛇やムカデはいません」と説明してくれました。さらに「ましてや、このような寒さのなかでは、どんなものでも生きていられません。夏であれば、このような荒れ果てた寺では、サソリなどは出没するかもしれませんが、この真冬には絶対出てきませんので、安心して眠ってください」と言ってくれました。
 彼と助手は木の枝などを運んできて、その上にガソリンをかけて焚火をつくってくれました。その夜、私たちは気持ち良く、ぐっすり眠りました。
 翌日、朝早く起きて、私は前の晩に準備した洗面器の水で、冷水摩擦をしようとしました。ところが洗面器の水が鏡のように凍っていました。その氷を割って、タオルを冷水にひたして体を拭きました。
 二十年間、冷水摩擦をしてきて、このときが最も冷たさを感じました(笑い)。体を拭くと、たちまち水蒸気が立ちます。でも本当に気持ちが良いものでした。
 私たちは「羊毛車」に乗り、“カタツムリのようなスピード”で進みました。中国の当時の長旅の平均標準速度で計算すると、私たちの旅は半月で終わるはずでした。しかし「羊毛車」に乗って、安西までで、まるまる一カ月かかりました。一九四三年(昭和十八年)二月二十日に蘭州を出発して、三月二十日にようやく安西に辿り着きました。
 池田 なるほど。予想以上に苛酷な旅路であったわけですね。荒涼たる地での旅の日々が目の前に浮かぶようです。安西からは、やはり駱駝ですか。
  そうでした。安西から道が分かれています。車道は新疆の哈密まで行く道しかありません。私たちは、車道とガタガタのおんぼろ「羊毛車」とも別れを告げて、車の生活にピリオドを打ちました。
 安西から敦煌までは、でこぼこ道さえありません。見渡す限り黄色い砂漠です。その上に砂丘や砂漠の植物が点々とあるだけで、大きな荒れた古墳のように見えました。これからは「砂漠の舟」である駱駝に頼るしかありません。
 駱駝は独特な歩き方をします。乗っていると、揺れながら、私は小さいとき、西湖の湖畔で舟を漕ぐ光景を思い出しました。ゴビ灘のなかを揺れながら歩いている駱駝には「砂漠の舟」という愛称が本当にふさわしいと思いました。
 私たち一行六人は、十頭の駱駝を借りて敦煌へ向かいました。全行程は百二十二キロ。平均して、一日に三十キロ移動します。私はこのとき、生まれて初めて駱駝に乗りました。駱駝は、背がとても高く、歩くと弾力性があって、ゆらゆらするので、最初は怖かったのですが、慣れてからは平気でした。
 駱駝は忍耐力が強くて、どんなに重い荷物を乗せても決して怒りません。最初に出あって、すぐに仲の良い友人になりました。
 池田 そして、ついに敦煌に入られるのですが、初めて敦煌に着かれたときの第一印象は……。
  駱駝にずっと乗っていて、黄色いゴビ灘の彼方に、小さな緑の点が見えたとき、私たちは大きな声で歓声をあげました。駱駝も、あたかも私たちの気持ちが通じたかのように、美しい蓮の花のような足跡を砂の上に残しながら、ペースを速めて、私たちを夢にまで見たあの莫高窟まで運んでくれました。
 私たちは木立の隙間から、蜂の巣のような岸壁を見ました。それに向かって、私たちは走りだしました。下の洞窟が砂に埋められていたため、砂丘の上に登り、そこから洞窟に滑りおりました。一気にいくつかの洞窟を見ました。そして古い漢橋を渡り、一つの大きな洞窟に入りました。
 そこに大きな壁画がありました。その絵は「捨身飼虎図」でした。この壁画が私にいちばん深い印象をあたえました。この絵が物語っているように、薩埵太子がわが身を虎に捧げることができるのであれば、私もこの芸術の宝庫のために、わが身を捧げられないことはないと思いました。
2  労苦の歳月
 池田 一九八五年(昭和六十年)の秋、すばらしい油彩画を先生より頂戴いたしました。「雪の莫高窟」と題するその絵は、私どもの記念館に、宝として置かせていただいております。絵の添え書きに「五十年の敦煌の歴史を回想して」としたためられてあり、私は敦煌とともにあった先生の人生の風雪をあらためて偲びました。
  池田先生にお贈りした絵には「九層楼」(北大像を収める第九六窟の楼閣)を描いています。私は九層楼に特別な感情をいだいています。初めて駱駝に乗って莫高窟に向かい、あと数キロの地点にいたったとき、目の前が急に明るくなったような気がしました。それは眠るように静かなたたずまいの樹林のところに、崖に沿って九層楼が見えたからです。私はパリで見たペリオの図録のなかの楼を現実に目にしたのです。
 以来、半世紀にわたって、私はこの九層楼の風鐸の音を聞いてきました。とくに夜が更けて、周囲には物音一つしないとき、横になって、深い群青色の空にかかった名月を眺めていると、この風鐸の音が「敦煌芸術の保護と研究にどれだけのことをしてきたか」と私を問い詰めているようにも聞こえました。
 また文化大革命の折、家族から引き離されて耐えがたい苦痛を受けていたとき、眠れないでいると、遠く九層楼から風鐸の音が聞こえてきました。その涼やかな音色は、私を慰め、勇気と希望をあたえ、奮起させてくれました。
 池田 敦煌の芸術を心の底から愛し、それこそわが子を慈しむように大切にされた、その深いご心情をうかがい、なおさら、あの九層楼の絵の意義が私の胸に迫ってきます。もう常先生のような方は出ないでしょうね。敦煌と先生との不思議な縁を私は感じます。
  私の起伏の多い人生の道で、限りない激励をあたえつづけてくれたのは、この九層楼でした。したがって私は九層楼を描くことが好きなのです。とくに新雪の後の九層楼に最も心を魅かれました。池田先生にその絵を贈呈したのも、こうした思いがあったからです。絵には「前事不忘 后事之師」(前事の忘れざるは後事の師なり――前にあったことを心にとどめておけば、後に物事を行うときに良い参考になる)との言葉をしたためました。
 この絵には私の願いがこめられています。それは莫高窟九層楼のように、風砂雨雪を畏れず、敦煌――この芸術の宝庫の重要な価値を永久に歴史にとどめたい、という私の心からの願望です。
 池田 重ねてご厚情に感謝いたします。
 ところで先生が行かれた当初のことを考えると、「陸の孤島」である莫高窟での生活は、衣、食、住のどれ一つをとってみても、初めて経験するものばかりだったのではないでしょうか。
  離れ小島のような莫高窟のすべての生活用品は、二十五キロ離れている敦煌県城で手に入れねばなりません。私の住居は、中寺の後庭にある、もともとは参拝客のためにあった部屋でした。中にはベッドはなくて、土を固めて煉瓦の形にしたもので作った台に、むしろを敷き、その上に麦藁を置き、布をかぶせて寝台にしました。
 机も土を固めたもので、上に石灰が塗ってあります。窓はとても小さく、枠は木で、その上に紙が張ってあるだけです。電気も当然ありません。皿の中に油を入れて、茎のずいで灯心を作る。このようなランプの光線は弱く、風が吹くとすぐ消えてしまいます。少したってから、敦煌県城でソ連製の石油ランプを購入してきました。これにはガラスのふたがついているので、風には強く光も油ランプよりは明るいものでした。
 池田 慣れない砂漠のなかでの生活で、食料を手に入れるのも人一倍のご苦労があったと思います。
  敦煌に着いた日には、本当は県城で鍋や皿やハシなどの日用品を購入する予定でしたが、あいにく着く前日に、県城が土匪に略奪されたばかりなので、城内の店は全部営業停止で閉店しており、何も買えませんでした。仕方がなく、私たちは砂漠植物の一種の紅柳でハシを作り、ラマ僧から鍋と碗を借りてきて、ソバをつくって食べました。他にはお酢一皿と漬け物一皿だけでした。
 池田 どなたか近くに住んでいらっしゃいましたか。
  当時、画家の張大千先生が、上寺(雷音寺ともいう)に住んでおり、中寺との間は壁一つ隔てているだけです。張大千先生は、私たちの貧しい生活をよく知ってくださっており、ときたま招待し、ごちそうしてくれました。その後、少し砂漠の生活に慣れてきて、私たちは羊を飼いました。毎日、羊から乳がとれます。また、ゴビ灘から「沙葱」というネギを取ってきて食べました。このネギは、普通のネギよりも、歯切れが良く香ばしいのです。
 池田 冬はとくにたいへんだったでしょうね。砂漠のなかだし、どのような工夫をされましたか。
  敦煌の冬はとても寒くて、零下二〇度近くまで下がります。厚い綿入れのコートか、毛皮のコートがなければ冬は過ごせません。私は市場で、遊牧民族の白い羊皮のコートを買いました。コートの襟まわりと裾あたりは、赤と緑の布地で飾ってあります。それを着ると、遊牧民のように見えました。
 池田 今、お話に出た張大千氏は莫高窟を調査し終わって帰られるとき、常先生に「私たちは先に行くよ。君はここで限りのない研究と保護をつづけるのかね。……無期懲役だね」(常書鴻『敦煌の芸術』土居淑子訳、同朋舎出版、参照)(笑い)と言って別れたとうかがっています。もちろん、ユーモアもあったでしょうが、この“無期懲役”という言葉は、たしかに、常先生のそのときの過酷な状況を端的に示している気がいたします。
  その言葉は冗談ではありますが、言いすぎとは思いませんでした。でも、この古代仏教文明の海原に、無期懲役が受けられれば、私は喜んでそれを受けたいという心境でした。
 池田 砂漠のなかに開かれた莫高窟は、長年にわたって流砂に埋もれ、砂や風の浸食を受け、放置されてきた結果、倒壊の危機に瀕していた。この状態から石窟と窟内の壁画や塑像を保護し、修復するために、常先生は何から始められましたか。
  莫高窟を保護、修復するために、まず植樹から着手しました。植樹すると、土砂崩れを防ぐことができます。
 それから土塀を作りました。動物が木を食べたり、洞窟に入ったりしないように、周囲に塀を造り、洞窟の入り口あたりにも塀を造り、砂がそれ以上、洞窟に流れこまないようにしました。
 池田 一歩一歩、着実に復興の大事業を進められたご様子がしのばれます。
 生活に不可欠な“水”などは、どのようにして確保されたのでしょうか。
  莫高窟の水は三十キロ離れたところから流れてくる水です。水の中にはある種の鉱物が含まれており、日光が当たると、水が苦くなります。「甘水井」と呼ばれている小さな泉の水も例外ではないのです。ただ、その泉は、日照時間が短く、水が苦くなる時間が比較的に少ない。ですから私たちは毎日、朝日が昇る前に、泉から水を運んできて、貯水器のなかに溜め、それを一日の飲料水として使いました。
 私たちは、深いところに地下水があると信じ、長年ずっと井戸を掘り、飲料水を探しつづけてきましたが、成功しませんでした。一九六二年(昭和三十七年)に、洞窟前の十数メートルの深いところに初めて地下水を発見しましたが、サンプルを調べたところ、水質が悪くて、飲み水にはなりませんでした。その後も、ずっと井戸を掘りつづけました。一九八〇年(昭和五十五年)以後、地質隊が調査をし、初めて飲食用にできるような井戸を莫高窟で掘り出しました。しかし、その水も、そのまま飲むのには適さないものでした。
 池田 健康にもずいぶん気をつかわれたと思いますが……。
  水の確保も大きな問題でしたが、病人が出たときはたいへんでした。生命が危険にさらされる場面にも何回も直面しました。莫高窟は、砂漠のなかの孤島で、医師に診てもらうためには、遠くまで行かねばなりません。新中国建国の前、次女が急病になりました。当時、敦煌には医療設備が欠けており、町までの交通もたいへんに不便で、五日後に莫高窟で亡くなってしまいました。研究所の工作員たちが、娘の墓に花輪を捧げてくれました。それには「孤独で貧しい者たちより謹んで贈る」と書かれていました。
 また莫高窟の測量図などを担当していた陳延儒が、急病で高熱を出して寝こんでいたとき、私の手をにぎって、「所長、私はもう長くはないですが、死んだら絶対に私を砂の中には埋めないでください。必ず土の中に埋めてください」と言ったこともありました。
 妻の李承仙も死にそうになったことがあります。午前三時ごろから大量出血して、顔からだんだん血の気が引いていきました。動かすこともできず、人に驢馬で医師を迎えに行ってもらいました。やっと医師が到着したのは午後三時ごろでした。医師の必死の看護で、やっとのことで妻を死の淵から救い出すことができました。
 池田 きっとお嬢さんは常先生の胸の中に生きておられるのだと思います。奥さまも常先生と一体となって生死を超えてこられました。先生のご著書『敦煌の芸術』(土居淑子訳、同朋舎出版)には「敦煌には、わたしの人生の大半がある」と記されています。まさに労苦と忍耐の連続の日々であられたわけですが、それだけに感慨も深く、大きい歳月であったことと思います。
  ありがたいお言葉に感謝します。今まで語ってきたことと重なるかもしれませんが、この四十数年来の私の人生を振り返ってみますと、当初はまさに「艱難辛苦をなめ尽くした、一家離散」のような生活でした。
 このまま敦煌に残って、困難と戦いつづけるか。それとも都会に戻って、安逸な画家生活を送るか。あれこれ悩んでいるとき、さまざまな言葉が蘇ってきました。
 張大千先生の言われた「無期懲役」という言葉。徐悲鴻先生は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」(出典は『後漢書』班超伝。危険を冒さなければ功名は立てられないとの意)と激励してくださいました。梁思成先生は「破釜沈船」(釜を破り船を沈める=最後の不退転の決断を下す)と励ましてくれました。こうした言葉を思いながら私は「人生は戦いの連続である。一つの困難を克服すると、また次の困難が出てくる。人生はその繰り返しだ。私は決して戻らない。どんな困難があろうとも、私は最後まで戦いきっていこう」と心を固めました。
 今になってみると、私のこの選択は正しかったと胸を張って言えます。少しも後悔しておりません。
 池田 「悔いはない」と言いきれるのは勝利の人生です。人生には、さまざまな障害がある。いわんや志が大きければ、それだけ障害も大きい。ひとたび、行き詰まると、安易な道に逃れて、志を途中で捨ててしまう場合があまりにも多いものです。しかし、先生は、あえて苦難の道を歩みぬかれた。
 艱難こそ、わが胸中の珠を磨いてくれる――順風よりも逆風のなかでこそ人間的に成長していくことを、私自身体験し、青年たちにも語ってまいりました。ある青年には「ひとたび 負けたからといって 君よ そんなに歎くことはない 真の勝利というものは 人生の最後の時に 決定されるべきを 信条として立ち向かっていくべきだ」との激励の言葉を贈ったこともあります。先生が言われるとおり、最後まで戦いきったかどうか。そして「私は勝った」と言える人生こそ尊いものです。
3  美しき西湖の湖畔
 池田 ここで、常先生のこれまでの人生、とくに少年時代、青春時代を振り返って語っていただければと思います。お生まれは杭州ということですね。
  そうです。私は風光明媚な西湖の湖畔に生まれました。少年時代、青年時代はずっと、この絵のように美しい所で過ごしました。
 池田 西湖ですか。いい所ですね。じつは私も一度、行ったことがあります。
  それは知りませんでした。いつごろのことですか。
 池田 最初の貴国訪問(一九七四年〈昭和四十九年〉)の折でした。当時は東京―北京間の空路が開かれてなくて、香港から広州を経て北京へまいりました。北京では李先念副総理との会見や、北京大学の訪問などの行事がありました。その後、西安、上海を訪れ、深夜に杭州に入りました。翌日の夕刻には、ふたたび上海へ移動するというたいへんに忙しいスケジュールでしたが、私たちの旅には、ずっと中日友好協会の孫平化会長(当時、秘書長)がご一緒してくださいました。
  そうでしたか。私には杭州は思い出深い所です。
 池田 かつて唐の大詩人・白楽天は、杭州の景勝は天下に比類がないと称えておりましたね。また西湖をうたった北宋の詩人・蘇東坡の有名な詩もありますね。
  「水光瀲艶として 晴れて方に好く
   山色空濛として 雨もまた奇なり」
 (水光瀲艶晴方好 山色空濛雨亦奇――きらきらと さざ波晴れてうるわしく けむりそむ山の姿 雨もうるわし)
 (『蘇東坡詩集』金岡照光訳、角川書店)
 私たちが訪れた日は文字どおり「雨もまた奇なり」の一日でした。「三潭印月」などを見て回りましたが、霧雨煙る六月の西湖は格別なものですね。船を下りてから、花港公園でしばし雨宿りしました。その折、山東省から来ていた十一歳の少年とも友だちになりました。
 湖は不思議と、若い人の心を美しく育んでくれますね。
  わが家の真ん前に小川があり、蓮の池がありました。春になるとオタマジャクシが池のほとりを泳いで、しばらくすると、尾がなくなっていく。いつのまにかカエルになって蓮の葉の上で跳びはねたり、虫を捕らえたりします。
 また朝になると池のほとりに子エビがたくさん集まってきます。透明な体が水の中に見え、たまに岸まで跳び上がってくるものもいる。私は毎朝早く起きて、エビを釣りました。いつも洗面器にいっぱい釣って母に渡しました。当時は家が貧しく、それをおかずにしていました。
 毎年、季節になると、蓮の葉が水の中から顔を出して、傘のような葉を広げる。間もなく蓮の花が葉より高くなり花が咲く。時期がくると、私たちは蓮の実を包んだ苞を採り、実を食べました。毎年同じことが繰り返されます。蓮の花が満開になると、その美しさに、ついついその景色を絵に描くこともしばしばありました。
 池田 そうそう、私が先生に贈る詩を作るときも、まず思い浮かんだのが蓮の花でした。「西湖の蓮花 碧波に映え 孤山の紅梅 秋月と絶景を競う 少年筆をとり 美の道に進めり」――美しい西湖の湖畔で過ごされていて、多感な常少年が絵の道を志すようになったことも、私はわかる気がいたします。常先生の西湖の湖畔での生活で、とくに印象深かったことは……。
  最も印象深いことは、一九二四年(大正十三年)の出来事です。私が雷峰塔を遠くから写生していると、突然、砂ぼこりが煙のように空に舞い上がっていきました。しばらくして、船頭さんから、雷峰塔が崩れたことを聞きました。幸運にも、私は青年時代に、倒れる以前の雷峰塔の雄姿を見ており、そして、雷峰塔を描いた絵を大事にしていました。絵画は美しい景色と忘れがたい刹那を永久に残すことができるからすばらしいと思います。後日、私が写実主義絵画を選んだのも、こうした出来事が大きく影響を及ぼしています。
 池田 移りゆく時の流れのなかで、一枚の画布に「永遠なる瞬間」が輝いている――。磨かれた画家の心の鏡が映す刹那の美は、幾百年という歳月を超え、遙か遠い国の人の心にも不朽の光を贈ってくれます。
 そうした美の世界をめざして芸術の道に進むようになったきっかけは……。
  私の最初の先生は、三番目の叔父さんでした。私の三番目と四番目の叔父さんは、身体障害者でした。三番目の叔父さんは、ブランコから落ちて障害者になりました。四番目の叔父さんは、小さいとき、とてもかわいくて、大人が高く持ち上げて遊んでいたとき、手がすべって落ち、体が不自由になったのです。
 とくに三番目の叔父さんは、ひどい状態でした。両足が、胸元にぴったりつくぐらい曲がっていました。右手も曲がっていました。しかし、叔父さんは、障害者だといって意気消沈することはありませんでした。いつも一生懸命に生きていました。
 彼は片方の手しか使えません。長期間の訓練の結果、唯一の自由な手で絵が描けるようになりました。お正月やクリスマスあたりになると、子どもの縄跳び、爆竹遊び、提灯遊びなど賀状で使う絵を描きました。
 また絵の下書きを描き、私たち子どもに同じように描かせて、その上に着色して、賀状を作らせました。何回も描いているうちに、私たちもそれらしいものが描けるようになりました。叔父は体が不自由なので、絵を描くのがたいへん困難でした。叔父は、私の絵は悪くない、と思っていたようです。私に絵を手伝うように言ってきました。
 私の家はとても貧しくて、私は生計を助けるために、似顔絵を描き始めました。当時、写真もありましたが、一枚、四、五十元かかり、一般家庭では高すぎました。
 私は家の前に肖像画を描くという看板を出しました。一枚、二、三十元もらえたので、たいへん助かりました。だんだん私の絵もよくなっていきました。三番目の叔父さんは、私の絵画の啓発の師といっても過言ではありません。
 池田 常書鴻先生の場合、どのような気風のご一家でしたか。お祖父さんは満族の軍人ともうかがっていますが、その気風は、ご一家に今も何か残っていますか。
  私の先祖は満族で、苗字は伊爾根覚羅と申します。清の時代に東北の黒龍江から杭州に来て防備にあたりました。以来、杭州に住みつくことになりました。西湖畔の「旗下営」というところで、そこには清の時代、満族の人々が集まって住んでおりました。幼いころ、よく祖母から祖先のことを聞きました。祖母は先祖が戦争で、いかに勇敢に戦ったかといったことなどを語ってくれました。
 毎年、祖先を祭る時期になると、母はいつも髪を高く結いました。高い下駄をはき、旗袍(民族衣装)をまといました。
 辛亥革命時代の「殺韃子」(満族人を殺す)の運動は、私たちにとってたいへんにつらい経験でした。さまざまな噂がとびかって、私は祖母と一緒に逃げて身を隠しました。しかし、町は平静で、家族も無事でした。それでも、こうした体験から、一九五〇年代まで満族であることを明らかにすることはできませんでした。
 私には権力に屈従しないという性格が備わっています。これは祖先から受け継いだ気質で、祖母と母が私の幼いころから、私に教育してくれたものだと信じています。

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