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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 シルクロードの宝石  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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1  遙かなる憧憬の地
 池田 いうまでもなく、敦煌は「シルクロードの宝石」であり、すばらしい歴史と文化の地です。そして敦煌といえば、常書鴻先生のお名前がすぐに連想されるほど、先生が敦煌の貴重な歴史文物の保護、紹介に幾十年も心血を注がれてきたことは、日本でもよく知られております。
 常先生との対話は、敦煌へのロマンの旅である――十年前(一九八〇年)に北京で、初めてお会いして以来、先生と語り合うたびに、私は感銘を深くしてまいりました。
 常先生のこれまで歩んでこられた道、人生の四季については、著書『敦煌の風鐸』(秋岡家栄訳、学習研究社)、『敦煌と私』(何子嵐・鈴木久訳、サイマル出版会)『敦煌の芸術』(土居淑子訳、同朋舎出版)などを拝見し、ある程度は存じあげているつもりです。それはそれとして、今回、このように敦煌の美と先生の人となりについて深くうかがえる機会を得て私はたいへんうれしく思っております。
  ありがとうございます。池田先生のような方と共通の思想をもち、交流できるのはたいへんに楽しいことです。中国にはこういう諺があります。
   「酒逢知己千杯少 話不投機半句多」
   (酒知己に逢えば千杯なりとも少なからん 話投機せざれば半句なりとも多からん)
 つまり、酒の席で知己に逢うと、千杯飲んでも足りない気がする。しかし、話の合わない人といると、半句でも多いような気がする。やはり気持ちの通じ合う人と話をするときは、心に共鳴するものを感じます。
 と申しますのも、池田先生の著作や講演を読みますと、先生は敦煌にたいへんに関心をもたれていることが、よくうかがえるからです。
 池田 そのように言っていただいて恐縮です。敦煌という言葉からは、まず遙かなるシルクロードの旅が連想されます。古の長安の都から蘭州、河西回廊、天山山脈、タクラマカン砂漠、そして、中近東世界からローマにいたる大陸を貫いた壮大なる道――。それは交易の道にとどまらず、文化の道であり、日本人にとっては、とくに仏教伝来の道として、親しみをもっております。
 この道は、苛酷な自然のなかに開かれたところも多い。険しい道があり、生命を拒絶する広漠たる砂漠、酷熱の地、厳寒の山々のなかにも連なっています。しかし、この道を通り、東西の旅人が往来し、たがいに新しい文化を伝え合ってきました。とりわけ敦煌はシルクロード文化の集積地として、多様な民族や人種が交流した悠久の歴史の舞台でした。オアシス敦煌には、人々の「不滅の魂」が今も秘められています。平和への限りなき光源があります。
 私どもにとって、きわめて大きな歴史的意義は、敦煌が、仏教なかんずく大乗仏教の東漸の中継地であった、また、無数の無名の人々による絢爛たる一大文化が咲き薫る、空前の仏法揺籃の地であった、という点です。
  そのような敦煌への心をいだかれるようになるまでには、それだけの理由がおありでしょうが、池田先生はいつ、どこで、何を通じて、敦煌のことを知られるようになったのでしょうか。
 池田 初めての敦煌との出合いは、小学校五年生のときです。学校の教室に大きな世界地図が張ってあり、いつもその地図を見ながら、敦煌のあたりを見ては、この辺は人はいないんだろうな、こういう所に行ってみたいな、と漠然と思っていました。
 あるとき、担任の桧山浩平先生が「みんなは世界のどこへ行きたいか」という質問を何人かの生徒にしました。そのときに、私は、その敦煌のあたりへ行ってみたいと答えました。ちょうど、日中戦争のころで、中国に関心が深かったこともあったと思います。桧山先生は「池田君、そこは敦煌といって、すばらしい宝物が一杯あるところだぞ」と話をしてくれました。
 それを聞いて、あんな砂漠の、だれもいないような所に宝物があるなんて不思議だなと思いました。その印象が今も残っております。それ以来、ゴビ砂漠や崑崙、天山山脈などの地図を見ながら、冒険心をそそられたりして、敦煌は大きな夢とロマンの地として、私の心の中にありました。いつの日か、自分も日中の平和の懸け橋となりたい、そして敦煌を訪ねてみたい、と心ひそかに思ったことを覚えております。
  敦煌についてさらに関心が深まった書籍などには、どのようなものがありましたか。
 池田 西域が、歴史の舞台として、私の視野に明確な輪郭をもって迫ってきたのは、司馬遷の『史記』、また『十八史略』などの中国の古典を読むようになってからでした。漢の武帝の命で、月氏に赴いた張騫の波瀾万丈の生涯、李陵と蘇武の故事などはとくに印象深いものでした。
 「さまよえる湖」のヘディンやスタインらの冒険家の旅の記録によって、埋もれたシルクロード文化に尽きせぬ好奇心をそそられたこともありました。
 また『唐詩選』のなかには、辺塞をうたった名詩が少なくありません。実際に西域に足を踏み入れた岑参の「胡笳の歌」、王昌齢の「従軍行」、王翰の「涼州詞」などは日本でも広く親しまれています。『楽府詩集』には、西域へ向かう友との王維の別離の詩がありますね。
  「渭城の朝雨は軽塵を潤し
   客舎 青青 柳色新たなり
   君に勧む更に尽くせ一杯の酒
   西のかた陽関を出づれば故人無からん」
  (吉川幸次郎・三好達治『新唐詩選』岩波新書)
 陽関(敦煌の西南にあり、玉門関とともに西域に通ずる門戸であった)を出ると、知る人はもういない。果てしなき砂漠の道がつづく――この旅立つ友に寄せたあまりにも有名な詩を読むと、遙かな世界がぐっと身近に感じられたものでした。
 そして忘れられないのがトインビー博士との対談です。「もし次に生まれるとしたら、地球上のどこに生まれたいか」という話題になったとき、博士は即座に「中国でしょう」と答えられた。また「過去の歴史上のどの地に、いつ生まれたかったか」という問いに、「西暦紀元が始まって間もないころ、大乗仏教がインドから新疆を経て東アジアへと伝えられた。仏教、インド文明、ギリシャ文明、イラン文明、中国文明の合流した、そうした種々の出来事のなかで、働いてみたかった」と。その言葉は私の脳裏に今も鮮明に残っております。
  トインビー博士と池田先生の対談集は、中国語でも出版されていますね。
 池田 敦煌文物を具体的に知る契機となったのは、一九五八年(昭和三十三年)一月に日本で開催された「中国敦煌芸術展覧会」でした。
 このときは常先生も来日されていましたね。この年は私の恩師である戸田先生が逝去された年でした。「中国敦煌芸術展覧会」が東京で開催されたころは、逝去の数カ月前で、私にとっては疾風怒涛のような日々の渦中でした。そのため会場まで足を運ぶことはできずじまいで、展示内容を紹介する記事、敦煌の学術、芸術的な価値を論じた多くの論文、写真などを見ました。それらは私がそれまで書物をとおして心にいだいていた予想を遙かに上回るすばらしいものでした。正直にいって、敦煌にこれほどの歴史遺産があることを知って驚いたものです。
 実際にその価値ある歴史遺産の一部を拝見したのは、一九八五年(昭和六十年)に私どもの東京富士美術館で開催された「中国敦煌展」の折でした。この「中国敦煌展」には貴国の文化部国家文物事業管理局、敦煌研究院、敦煌県博物館はじめ多くの方々の協力で、貴重な文物を展示していただき、心から感謝しております。
  東京富士美術館の「中国敦煌展」は、東京、京都で開催された「中国敦煌芸術展」(一九五八年)、東京、京都、仙台などで行われた「中国敦煌壁画展」(一九八二年)につづいて開かれた大規模な敦煌展でした。「中国敦煌展」は、池田先生および創価学会の諸先生のご尽力によって実現したものですが、過去の数回の展示と違う特徴がありました。
 展示内容は敦煌各時代の代表的な壁画の模写以外に、敦煌の出土文物、貴重な漢代の木簡、一度も国外に持ち出したことのない敦煌写経、北魏太和十一年(四八七年)の刺繍仏画、図解本西夏文字の「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」、唐代の「地志」、「紫微垣星図」、「占雲気書」等まで含まれております。この「中国敦煌展」は、敦煌文物のすべての分野にわたる展示が初めて国外で行われたといっても、過言ではありません。
 池田 「中国敦煌展」には、世界でも初公開といわれる数多くの一級文物を出品していただきました。壁画の模写絵、出土文物、経典と、敦煌を総合的に紹介する展示で、開催された各地で大好評でした。私も興味深く拝見しました。敦煌文書のなかで多数を占めるのは仏教経典で、そのなかで最も多いのが『法華経』とうかがっていましたが、本当にすばらしいものでした。
2  敦煌の興亡
 池田 敦煌は、北京から直線距離にして約二千キロ、北にはゴビ砂漠、西にはタクラマカン砂漠が広がり、南はチベット高原へとつづく、ちょうど中央アジアへの門戸に位置しています。統計によれば、これまでの最高気温が四四・一度、最低が零下二二・六度で、とくに春先には“黒風”と呼ばれる砂嵐が吹き荒れる。この敦煌にも、すでに紀元前十一世紀ごろから少数民族が住んでいたといわれています。また、『史記』大宛列伝には「はじめ、月氏は敦煌(甘粛省)と祁連山(甘粛省)の間に居住していました」(『史記』〔下〕野口定男訳、平凡社)とあるように、月氏の活躍の舞台とともに、はっきり「敦煌」という名が歴史上に登場します。
 漢の武帝の時代に敦煌郡が正式に置かれた、と史書に記録されています。漢の西方発展の根拠地として置かれたわけですが、人口は、当時すでに三万八千三百三十五人であったとも記されています。それ以来、敦煌は東と西を結ぶ交易宿場都市、東西両文明が流入する文化の地として、じつに二千年の歴史を有することになりました。
  ええ、唐時代(六一八年―九〇七年)、とくに晩唐時期に繁栄していました。
 池田 『大唐西域記』を著した玄奘はインド、西域を旅しましたが、敦煌についての記録は見あたらないようです。その当時の敦煌は、文献にはどのように記載されていますか。
  玄奘はインドからの帰途、敦煌に立ち寄りました。しかし、非常に急いでいたので長くは滞在しませんでした。そのため彼の西域紀行には、敦煌のことは記載されませんでした。しかし、歴史の記録によると、当時の敦煌はたいへんに繁栄しておりました。商人は皆ここに集まって、朝市、昼市、夜市と、一日に三回、市が開かれ、とても盛況だったようです。その後、五代(九〇七年―九六〇年)、宋(九六〇年―一二七九年)を経て、元(一二七一年―一三六八年)になると、だんだん衰えてきて、明(一三六八年―一六四四年)にいたって、嘉峪関の閉鎖とともにさびれてしまいました。したがって敦煌の壁画には明代のものは残っていません。
 池田 マルコ・ポーロの『東方見聞録』にも敦煌のことが出ていますね。彼は十三世紀の後半に、アジアに大旅行を行って、『東方見聞録』を残しましたが、同書によりますと、そのころの敦煌は元の時代にあたり、「大ハーンの領土」であると記されています。さらに当時の住民の大部分が仏教徒であり、若干のネストリウス派(キリスト教の一派)とイスラム教徒もいたことが、その記述からうかがえます。
 しかし、マルコ・ポーロの眼に映ったこのころの敦煌は、やはり次第に衰えてしまっていたためでしょうか、あまり強烈な印象をあたえていないように見受けられます。
  清の雍正年代(一七二三年―三五年)になってから営みが復活しましたが、漢代、唐代の盛況はもうふたたび見ることができませんでした。現在の敦煌県は清代の雍正三年(一七二五年)に設置されました。
 当時、汪徳容という人が敦煌を通ったときにこう記しました。「今寺已久湮、而図画極工」(今 寺は已に久しく湮れり 而るに図画はきわめて工なり――寺はすでに久しく埋もれているが、壁画はきわめてすばらしい)。
 嘉慶末年(一八二〇年)に西北歴史地理学者の徐松は『西域水道記』の中で、莫高窟について詳しく記載しました。
 光緒五年(一八七九年)には、ハンガリー人のルクスが、ヨーロッパ人として初めて莫高窟を見学しました。彼は、この予想外の発見と収穫にたいへん驚きました。
 莫高窟が世界を驚かせたのはご承知のとおり光緒二十六年(一九〇〇年)の「蔵経洞」の経典、文書等の発見です。
3  敦煌莫高窟の開創
 池田 敦煌周辺には、有名な莫高窟のほかに、西千仏洞、楡林窟などの石窟の遺跡があります。なかでも質量ともに豊富なのが莫高窟です。莫高窟という名称は一説には「砂漠の高いところにある石窟」ということを意味しており、鳴沙山と三危山に挟まれたオアシスにあります。そのまわりは、見わたすかぎりの砂漠と山で、鳴沙山の断崖に最初に石窟が開創されたのは四世紀です。以来、約千年にわたって次々に開かれて、古い記録には「窟室一千余龕」があるという記述がありました。
 しかし、崩れてしまったものや不明のものもあり、現在は四百九十二窟。それでも長さは千六百メートルもあり、解放前と比べると、百八十三増えているということですね。敦煌の城自体が、歴史の興亡のなかで、かつての姿を消してしまったのに対し、人里離れた砂漠のなかにあった莫高窟は、今に歴史の光を残しています。
  一九四三年(昭和十八年)に、私が敦煌莫高窟に着いてから、洞窟の番号は、張大千先生のつけた番号を使いました。張大千先生は、大きな石窟の通り道にある小さな石窟には別の付嘱番号をつけていました。
 一九四七年から、私たちは莫高窟の全洞窟に新たな番号をつけました。そのときは小さな石窟でも全部番号をつけましたので、当時、合計四百六十八になりました。一九五三年に洞窟の前にある土台を取り壊したときと、一九六三年に石窟を全面的に強化するために周辺を固める作業をしていたときに、新たに二十四の洞窟を発見しました。実際には、莫高窟には七百以上の洞窟があります。そのなかで、壁画と、塑像のある洞窟だけ番号をつけました。その数は合計四百九十二で、北区域には壁画も塑像もない洞窟があるのですが、それらには番号をつけていません。
 今後もさらに新たな発掘は期待できるかということに対して、私はこの四十年余り、ずっとその可能性を放棄していません。補修強化工事をしているときでも、調査しているときでも、つねにこのことを頭に入れております。
 池田 何点かおうかがいしたいのですが、敦煌莫高窟で、一番大きい洞窟は、どの石窟ですか。それは、どのくらいの規模ですか。また、最も小さい石窟は――。
  洞窟の大きさは高さと平面の大きさに分けられます。最も高い洞窟は第九六窟。九層楼で、そこにある弥勒大仏は三十三メートルの高さです。面積からいうと、一番大きいのは宋代の第六一窟です。間口が十三メートル、奥行きは十四メートルあります。最も小さい洞窟は第三七窟。まったく小さな洞窟で、人が入れないくらいです。
 池田 石窟が造営されている「鳴沙山」の“鳴沙”という呼称も、なかなか味のある名ですが。
  人が鳴沙山を下るとき、流砂がたがいにぶつかり合い、摩擦によって小さな音が発生します。それはちょうど飛行機に乗って、感じるそのかすかな震動の音と同じです。そのために、人が「鳴沙山」と呼ぶようになりました。
 池田 鳴沙山は、東西の長さが四十キロもある。これほど大きな砂丘の連なりは、どうしてできたと思われますか。
  一九六二年(昭和三十七年)、私たちは専門家と会議を開き、敦煌の砂の問題などを検討しました。そのとき、砂漠の専門家に鳴沙山の形成についてもうかがいました。だが、さまざまな意見が出てきて、まとまりませんでした。でも、私は次の意見に傾いています。
 それは、鳴沙山の底には、もともとは普通の山脈がありました。西側の砂丘が東に移動したために、これらの大小の山脈を全部覆いかぶせて、今日のような鳴沙山を作り上げたという説です。
 池田 それと鳴沙山中には三千年来、水が涸れたことのない不思議な泉があるそうですね。
  鳴沙山のなかに、四面を砂丘に囲まれている泉があります。三日月のような形をしていますので、中国語では「月牙(三日月)泉」と呼んでいます。
 砂丘に囲まれていますので、風が東より吹く場合は、砂は西面の砂丘に降る。風が西より吹く場合は、砂は東面の砂丘に降りて、泉には降りてこない。この泉の水は三千年来、涸れたことがない。漢代の伝説によると、ここは天馬の出所地であるといわれています。
 池田 月牙泉で採集した砂を「五色の砂」と呼ぶようですが。
  鳴沙山のところで、流砂は大粒と小粒に分かれるのです。大粒の砂はゴマよりも小さいけれど、さまざまな色があるのです。たとえば淡い灰色、ピンク色、濃赤色、紫色等があります。本当は五色以上ありますが、色が多いという意味で、五色砂と呼んでおります。
 池田 よくわかりました。敦煌莫高窟の最初の石窟が開かれたのは、李懐譲の「重修莫高窟仏龕碑」によると建元二年(三六六年)ということですね。そこには、その年に、沙門(僧)・楽僔(らくそん)が、林野を歩くうちに、山が金色の光に照らされ、あたかもそこに千仏が現れたかに見えたことから、石窟を一つ造ったと記されています。
 これが莫高窟開創の由来といわれていますが、いったい楽僔が見たという千仏とは何であったと思われますか。
 ちなみに、黄河上流にある炳霊寺石窟の「炳霊」とはチベット語の“十万仏”あるいは“千仏”に由来するなどという話もありますが。
  三危山の「金色の光」という莫高窟の奇異な現象が、最初に記録に残っていたのは、たしかに今お話があったとおり、莫高窟第三三二窟で発見された唐代の聖暦元年(六九八年)、李懐譲が莫高窟の仏龕を修復するとき建てた「重修莫高窟仏龕碑」です。
 私は莫高窟に数十年来生活しておりましたが、このように金色の光は、実際に見る美しい景色です。とくに真夏の八月あたり、雨が降ったあと(敦煌は砂漠気候で、あまり雨が降らない)、夕方になると、莫高窟の東方向にある三危山に映る夕映えは、完熟したミカンのような黄金色になるのです。三危山の背後には、だんだん暗くなっていく空、前方には暗く茶色の砂漠、三危山だけが黄金色の夕映えにくっきりと見える。その帯状の黄金色は、あたかも千の仏が山脈に並列して座っているように見えます。私は何回も屋根に登って、この美しい景色を絵に描いたことがあります。
 五〇年代に、私は画家の葉浅予、李斛先生らと一緒にこの奇異な光景を莫高窟で見ました。
 李先生曰く「あの小さな山々が、本当に千仏並列のように見えますね!」。葉先生は「あのあたりの山頂は、あたかも文殊菩薩が座っているように見えます」と溜め息をつきました。一九七八年、画家の馮真が、三危山から四方に放っている金色の光の光景を見たと私に言いました。あまりにも美しくて、びっくりしたが、一刹那で消えてしまったということでした。
 私の息子の嘉煌も似たような光景を見たことがありました。彼は山の頂で絵を描いていました。太陽が西に傾き、ちょうど地平線に沈んでいく瞬間、三危山の方角から千万の金色の光線が放たれている。彼は急いでカメラを取り出し撮影しようと思いましたが、間に合いませんでした。
 この金色の光は、偶然にしか出合えない光景ですが、唐代の碑文に記載してある楽僔が見た千仏のような金色の光は真実だと思います。この金色の光は、画家、詩人にたくさんの幻想と夢をあたえてきました。私もこの金色の光を見たときの「千仏の姿がいるような」光景を思い出すたびに、いつも懐かしく、うっとりとさせられます。
 池田 なるほど。なんとなくイメージがわいてきました。(笑い)
 ところで、この“千仏”という言葉は、『法華経』の「普賢菩薩勧発品」には「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」とあります。
 日蓮大聖人の御書には、この普賢菩薩勧発品の文を引かれての「千仏とは千如の法門なり謗法の人は獄卒来迎し法華経の行者は千仏来迎し給うべし」(創価学会版『日蓮大聖人御書全集』七八〇㌻。以下、御書と略記)、「一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん」(御書一三三七㌻)などの御文があります。これらは『法華経』の信仰のすばらしさを示されたものです。
 浄土三部経による阿弥陀信仰では、命終すると観音菩薩と勢至菩薩が来迎すると説かれているのに対して、『法華経』では「千仏来迎」という遙かに荘厳で、スケールの大きい表現で、その偉大さを際立たせています。こうしたこともあって、“千仏”という言葉は、私たちにも、かなり親しい仏教用語となっています。
 また私には大乗仏典の仏や仏国土の象徴としての描写が思い起こされます。『法華経』の「序品」では、仏が眉間から一条の光明を放って、東方万八千という数多くの国土を照らした結果、それらの国土が皆金色のようになった、という場面があります。
 おそらく、三危山の金色の光を見た人々は、一瞬、仏国土を垣間見るような荘厳さのなかにつつまれたのでしょうね。

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