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日蓮大聖人・池田大作

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「子供の庭」のこと。人間化の季節 池田…  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
1  御厚情あふれる十二回目のお手紙を札幌の地で拝見いたしました。東奔と西走が日常となってしまった私にとって、動きながら考え、考えながら書くのが、習い性になってしまったようです。青年の頃、思い描いた静寂な思索の暇も、どうやら思いの彼方に遠のくばかりです。書簡を頂くたびに丼上さんの心情に直かに触れるようで、随分、井上さんのお人柄と作品への理解を深めることができました。それも机上に静止した理解に留めるだけではなく、できることなら、私自身の行動に沿って、広く我が同志である友と共有することを念願としてまいりました。
 井上さんは何をお書きになっていても、井上さん御自身を語っておられる。率直に私個人の感慨を申し上げれば、井上さんの生命的境涯の発露として、毎月の書簡をことのほか大切に拝読させていただきました。そこに、私なりに文学を直観したともいえます。それは人間性への昇華に打ち込まれる文学者の魂をお見せいただいたようにも思えるからです。
2  久しぶりに北海道を訪れたのは、四月十六日に、札幌郊外の羊ケ丘に創価幼稚園がようやく開園の運びになり、初めての幼稚園ということもあって、創立者として招かれたのです。
 藻岩もいわ山を初め、遠くに雪を残す連山を望み、石狩の沃野を眼前にするこの羊ケ丘は、幼児教育の環境としては理想的で、この地を教育の起点としたことに、私なりに意義を含めておいたつもりでいます。ここかしこにふきとうが顔を出し、もう少しすると春と夏がいっぺんにやってきて、色とりどりの草花で満ち、秋には赤トンポが飛ぶ澄みきった青空の下、牧舎に帰る羊群が見受けられることでしょう。
 この豊かな大自然の庭のなかで、子供たちは、きっと、この幼稚園のモットーのごとく、「つよく、ただしく、のびのび」と育っていくにちがいありません。未来からの王子と王女のように、誇り高く子供は育てられなければいけないし、その資格がどの子にも等しくそなわっていることが、じかに接すれば接するほど解ってくるものです。
 たまたまこの開園式と同じ日に、この羊ケ丘の高台で、クラーク博士の銅像の除幕式が行われたそうです。いつの時代にも、教育者には、無私の志がなければならないと思っています。
 式の始まる前、父母につきそわれてやってくる子供たちを迎えるために、玄関で今や遅しと待っていました。未来からの使者を精一杯の真心で迎えてあげたい、そんな気持でたたずんでおりました。手をとり、身体を抱き寄せて、私は皆さんを絶対的に尊敬し、信頼しています、一人一人の瞳の奥に、未来の日本、世界の輝きが見えるような気がしてならない、どうか二十一世紀を頼みます。そう語りかけ、祝福させてもらいました。
3  良い木は、必ず良い苗でなければならないという自明のことが、なぜ忘れ去られたままになっているのでしょうか。青少年の非行化と教育の疲弊についてはだれもが口にしています。実際に子供の姿を毎日見ている父母の側にとっては、気が気ではなく、焦躁感にさえとらわれる場合もあることでしょう。たしかに、それはそれなりに教育行政自体の問題も山積していることは、よくわかります。しかし、行政的な施策を変えるという対症的な改革だけで、縫れきった糸をほぐすことは、容易でないと思っています。
 「教育産業」という言葉があることは知っていましたが、それが嘲笑した言辞だけではなく、実際に企業経営化しているという実情には、驚くほかありません。商業主義支配の断面を見せつけられる思いがします。
 教育が、何かの手段になるような時代は、私たちには悪夢の記憶としてしか蘇ってきません。学の独立と同時に、教育権の独立は、人間の尊厳に深くかかわっていることを、私は私なりに訴え、具体的に実践していくコースに入りかけたようです。ただ、人間教育の射程は、未来そのものと言ってもいいでしょう。いくら疾走しても、最終ゴールはありません。この根気と持続力のいる労作業に、歴代の会長が取り組み、また私自身が、そのバトンを受け継いでしまったわけです。幼稚園から大学まで、ようやく一貫教育への端緒につくことができた時点ということもあって、いささか議論めいたことを認めてしまいました。どうかお読みとばし下さい。
 ところで、今回私は、初めてスクールバスというものに乗ってみました。園児たちを各家庭に送り届けるために、二回ほど同乗したのですが、車中は、まさに現代っ子たちのにぎやかなパラダイスのようでした。ある子から「池田のおじさん、なぞなぞしよう」と挑戦され、「大きな羽根をつけて、上がったり下がったりするもの、なあ―に」と問いかけられて、「ちょうちょ」と答えると、「当たリ!」と、大合唱のような大声の判定がかえってくるのです。
 子供たちの話はつきることがありません。考え考え、真剣な口振りで、空想の世界を語ります。
 「ロボットが空を飛んで、地球のまわりをぐるぐるまわる時がくるよね」と、夢の世界の確認を迫られたり、と思うと「池田のおじさん、いろんな所へ行ったでしょう。フランスも行ったでしょう」と、突然聞いてきます。「うん、行ったよ。今度は、みんなといっしょに行こうね」と、返事をすると「うん!」と言いながら、すかさず「ぼくたちの遠足にも来てくれる?」と、約束をせがまれてしまいました。
 何のてらいも、ためらいもなく、自由で、奔放な世界の住人たちと、思いがけない交歓の機会をもち、清新な気持にさせられた半面、こうした子供たちに接する大人は、自分をも育む努力を重ねなければ大変だ、ということが実感できました。

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