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日蓮大聖人・池田大作

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春・ヨーロッパの旅 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
1  岡山の方はもう桜が五分咲きになっているとのこと、東京も四、五日前まで明るい春の陽射しに恵まれまして、例年より早い春の到来を思わせられましたが、昨日あたりから気温が落ちて、またまた春は後退さりしている恰好です。毎年思うことですが、この時期は寒気が日本列島の上を行ったり、来たりしていて、それにつれて春が顔を覗かせたり、引込めたり、虚々実々といった感じであります。春寒はるざむという言葉がありますが、今頃の寒さを言うのでありましょうか。
 狭い私の家の庭では、白梅も、紅梅もすっかり散り、杏、こぶしの花は盛りを過ぎております。いまこのお便りのペンを置いて、庭に出てみましたら、沈丁花と土佐みずきの花が真盛りで、紫の房のようなライラックの花、白い小さいゆすらうめの花、米粒のような雪柳の花、それから赤城つつじの花などが咲き始めておりました。庭に降り立って、その傍に立たないと、花が咲いているのか、いないのか判らないような小さい株ですが、それぞれ自分たちの春を迎えたり、迎えようとしたりしております。菜の花も咲いており、福寿草も咲いております。椿も赤い花をつけております。
 やがて間もなく四月になりますが、そうすると、桜の出番である本格的な春の舞台が廻って参ります。桜の時季になりましても、寒さが全くないわけではありません。花冷はなびえという言葉は、その頃の寒さを言っているのかと思います。
 寒気と、明るい陽光とが互いに押したり、引いたりしている間に、日本列島の植物や草本は、決して己が出番を間違えることなく、早春の舞台に登場し、次々にバトンを渡し、桜の咲く本格的な春の到来までの間をつないでいる恰好であります。
2  今年はこうした日本の春の歩みの美しさを、特に心に滲みるように感じております。二月下旬から三月の初めにかけて、丁度梅の咲いている時季を、慌しくヨーロッパの旅で過してまいりましたので、日本のおだやかな自然の動きが堪まらなく美しく、有難いものに感じられます。
 ヨーロッパの冬は、こんどの旅で初めて知りました。たいへんな寒さであろうと、寒さのほどは覚悟して参りましたが、ロンドンでも、ストックホルムでも、ハンブルグでも、この冬初めてとか、何年にもないとかいう暖かさに見舞われ、東京に居るのと変りない冬の旅を続けることができました。
 ハンブルグでは一日だけ陽が照り、二月に太陽の光を見るのは何年にもないことであるということでしたが、やはりその翌日は、街は暗鬱な灰色の空に覆われてしまいました。雨も降らず、雪も降らないのに、冬の間ずっと陽光とは無縁な生活をしなければならぬとは、厄介なことだと思いました。
 ホテルのロビーの窓から見ると、着ぶくれた男女が、みな申し合せたように俯向いて、石畳の道を歩いておりました。何も考えないで歩いているのか知りませんが、私たちの眼には、誰もが自分ひとりの思いの中に入って、重い足を運んでいるように見えます。これはハンブルグだけのことではなく、ストックホルムでも同じような街の情景でありました。誰も彼もが、冬の間はじっと我慢して、明るい陽光の降る春の到来を、ひたすら待ちに待っているかのように見受けられました。
 ヨーロッパの北の国々に較べますと、冬でも、天気さえよければ、毎日のように太陽の光に恵まれる日本は、なんと有難い国であろうかと思います。そうした国に生れた若者だからでありましょうか、どこへ行っても、日本の若者たちの旅行の集団を見掛けました。何となく日本という国のエネルギーがはみ出して、渦巻いているような感じで、いいことにも、またその反対にも受け取れますが、やはり冬でも陽の照る日本という国の恵まれた自然が無関係ではないように思われました。本当はエネルギーといったようなものではなく、自然の恩恵に馴れた大胆さが、日本の若者たちを動かしているのかも知れません。
3  ロンドンを初め各地で、そこで働いている多勢の日本人の前で講演をしました。講談社と日本航空共催の講演会でしたが、聴衆はおどろくほど真面目で、話をしていて、何とも言えず気持のいいことでした。日本国内での講演会には多少のぎわつきは免れ得ませんが、こんどの講演会場では、そうしたものは一切感じられませんでした。
 講演のあと、控え室で何人かの人から質問を受けましたが、その質問もまた、非常に真面目なものでした。勤めの関係で何年も外国で暮している人たちは、例外なくものを考える人間になっているように思われました。人生について、人間について、信仰について、そして日本という国について、考えなければならぬことがいっぱいあるように見受けました。異国の人たちの間で、そして日本とは全く異った自然、風土の中で生活するということが、生きる上のたくさんの問題をそうした人たちに与えるのでありましょうか。
 それはともかくとしまして、冬のヨーロッパの旅から早春の日本に帰りまして、日本の自然を美しく思い、有難く思い、そしてその美しく有難い自然の国が、ロッキード事件というふしぎなことで、国を挙げて大揺れに揺れているのに驚きました。異国にあって日本の国のことを考えている人たちが、どのように戸惑い、悲しんでいるかと思うと、心痛むものがあります。

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