Nichiren・Ikeda
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ロシアの美術・仏教の死生観 池田大作
「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)
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1 私が創立しました富士美術館を御訪問頂いた由、大変嬉しく存じます。現在、開催中のトレチャコフ・プーシキン二大美術館展は、先月中旬、私も見る機会を得ました。
このうえなく魅かれてはいても、美術の方面にそれほどの造詣もない私ですが、ささやかなものながら、私のソ連訪問が、こうした文化の交流という形に繋ってきたことは何よりの喜びでした。
ご存知のように、トレチヤコフ美術館は、ソ連で有数のロシア美術を収蔵する美術館であり、一方のプーシキン美術館は西欧の絵画を有しております。ゴーギャンの「タヒチの女」やセザンヌの諸作品など、プーシキン美術館からの出展にも、深く感興をそそられるものがありましたが、どちらかというと、私はトレチャコフ美術館からの展観作品に、より興味を覚えました。そこにはロシアの民衆の生命の息吹、生活の匂いのようなものが、画布を通して親しく感じられます。
2 ロシアの典型的な風景は、何といっても「森」にあるように思われます。実際、モスクワやレニングラードの街々から一歩、郊外へ出ますと、見はるかす大地に圧倒される想いを抱くのは、私一人ではないでしょう。その果てしない地平の広がりは、同時に長遠の時を感じさせます。そしてそこで営まれてきた人間と自然との歴史への一種の感動を覚えるのでした。
「耕地にて」というクロートの作品がありましたが、これがロシアの真実の姿ではないでしょうか。「森辺の野花」や「北方」などという風景画にも、口シアの民衆の自然への親しみと愛情と、同時に厳しい自然に対する畏敬の念がうかがわれました。
近代ロシア美術の巨匠といわれるレーピンの作品には、ことに印象深いものがありました。二年前の九月、モスクワの十月二十五日通りにあるレストラン・スラピヤンスキー・バザールで、モスクワ大学の方々と食事をしたことがありました。美術アカデミーを卒業したレーピンが、初めての注文を受けて描いたのが、かつてこのレストランに掲げられていた「スラブ民族の作曲家たち」だということでした。
このレストランは、トルストイやチェホフもツルゲーネフをはじめ、チャイコフスキーや声楽家のシヤリアピンなどがよく利用した由緒ある店と伺いました。店の入り口には、パンと塩を持って迎える等身大の電動仕掛けの人形があります。これは、貧窮のなかにもパンと塩という、命の糧をもって客を迎えるという、ロシアの農村の伝統的な風習であるそうです。私には、そうした民衆の心情と交流しようとする愛情に満ちた生活描写が、トレチャコフからの絵にうかがわれたのです。
3 「眠る子供たち」と題したペローフという画家の絵にも、目を惹きつけられるものがありました。穏やかに射し込む光のなかで、寄り添うようにして眠る兄弟を描いているのですが、服は裾がほころびた粗末なもので、敷き物もなく、あどけない表情の子供たちは着のみ着のままで眠っています。その子供の顔には、悲惨や貧苦を越えて生きようとする、人間の生命の根源に秘められた意志が、象徴されているように思えました。
本当に画布には、画家自身の心象風景が映じているものなのでしょう。レーピンについてのいくつかの本を拾い読みしましたが、モスクワで仕事をするようになって、彼はこう述べています。
「何から始めてよいのかわからず、目がちらついています。いたるところに生きいきとした、ありのままな生活の再現描写、それは特色をもち、誠実で表現力に富んだものであります。何という、何というすばらしい絵でしょう! これはただ目では信じられないほど独創的で力強いものです」――
これはモスクワの若い画家たちの作品を前にして語ったものですが、レーピンをして創造へと駆りたてた淵源を知ることができるように思います。今回は残念ながら出展されておりませんが、有名な「ヴォルガの舟曳き人夫」も、こうした心象と心情を発条にしてできあがったものでありましょう。
美術館へ訪ねて頂いたお礼を申し述べるつもりが、つい饒舌になってしまいました。人間としての自覚の昂揚を、最も直裁に訴えかけてくる絵画の詩情を大切にするだけで、美術に対する何らの見識も持たない、一人の素人の勝手な独語として、お読み捨て下さいますように。