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千利休・秋水・『化石』の頃 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

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1  お手紙有難うございました。例年でしたら、秋の気が日一日深くなって行く頃でありますのに、今年はまだ連日、土用のような厳しい暑さが続いております。
 お手紙拝読して、小生の小説『化石』をお読み頂いたことを知り、恐縮いたしました。そして小説の中に取り扱われている死の問題をお取り上げ下さった上、それについてのご感想をお洩らし頂きましたことに対して、心からお礼申し上げます。未だに死や生の問題に対して、いかなる考えらしい考えも持ち得ませんのに、臆面もなく、作中人物に死という問題を語らせてありまして、その点、甚だ忸怩じくじたるものがあります。『化石』は十年程前に新聞に連載した小説でありますが、一冊に纏めました折、書評に取り上げられ、いくつかの批評も得ましたが、作品の持つ中心主題について言及され、その主題と作者である私との関係についてお訊ね頂いたようなことは、こんどが初めてのことであります。
 今年は八月半ば過ぎてから軽井沢の仕事場に入りまして、約一カ月、そこで過しました。前々からの懸案である利体の生涯を小説の形で綴る仕事に取りかかろうと思いまして、その大体の構想を立てるつもりの軽井沢行きでありましたが、結局は何も纏ったことはできず、無為に過した結果になりました。
2  利休の生涯を書く上で、一番の眼目は、秀吉から死を賜ってより自刃するまでの、短い期間における利休の心境でありますが、それを書くということは、なかなか難しいことであります。茶人利体の本領は、どのような形であれ、そこに出ているに違いないのでありますが、その手懸りとなるものは、その期間に利休が書き遺した、あるいは言い遺した遺偶や遺言の類しかなく、そこから死に対かい合った時の心境を推量するほかありません。利休は死に臨んで″人生七十 力囲希咄きとつ 吾這宝剣わがこのほうけん 祖仏共殺″というと、″ひっさぐる我得具足の一つ太刀 今此の時ぞ天になげうつ″という辞世の和歌を遺しています。この他に、利体の参禅の師古渓こけいが最期の心境を訊いた時、利休は″白日青天怒電光″という言葉を以て答えたというようなことが、古渓の語録「蒲庵稿」に記されています。いずれからも共通した烈しさが感じられます。
 まあ、以上の三つが、利休末期の心境を知る史料であろうと思いますが、小説家としての私は、これをそのまま取り扱って間違いないかということになると、自信は持てません。このように書き遺してはいるが、茶道の改革者、大成者としての利休の末期の覚悟は、もう少し違ったところにあったのではないか、そんな気持もいたして参ります。一人の人間の死への対かい方を間違いなく書こうということは、よく考えると、たいへん難しいことでもあり、怖いことでもあります。
 明治末期に大逆事件で投獄され死刑になった幸徳秋水は、獄中で受刑直前に″死生″を執筆しています。ご存じと思いますが、さして長い文章ではありません。しかし、その中に死に対する覚悟を、恰も読む者に言い聞かせるように諄々と語っております。この場合は、″死生″からさして間違いなく幸徳秋水の最期の心境というものを窺い知ることができるかと思います。
 利休の場合は偈や和歌の形ですから、間違いないようにそれを解釈することは、なかなか難しいことになります。利休の遺偈の類がつまらないということでも、信用できないということでもありません。
 これはこれとしておいて、利休にはもう一つ別の心があったのではないか、もう少し別の覚悟で、自刃の座に坐ったのではないか、私としましてはこのように考えたい気持になっております。
3  このようなことを申しますのも、直前に迫っている死というものは、人に対してある共通した呼びかけをするものではないか、そういう考えを最近の私が持っているからです。死を見詰めることによって、初めて生を見詰めることができるに違いありませんし、宗教というものに関心があろうとなかろうと、初めてそこに生きるということの意味が、どんな素朴な形に於てであっても問題になってくるだろうと思います。
 もう七、八年前のことになりますが、主婦の友社の依頼で、臼井吉見氏と私の二人の編で「十冊の本」という十巻の随想全集を出したことがあります。その中の一冊に″生死をこえるもの″という題のもとに、主として生死の問題について綴った十二、三篇の文章を収めたことがあります。鈴木大拙、内村鑑三、小泉信三、幸徳秋水といった人々、そして池田さんにはたくさんのご著書からの抜粋を″幸福の確かめ″という題で収めさせて頂いております。
 生死の問題について綴った文章というものは、私などが眼に触れ得る形では、そうたくさんはありません。言うまでもなく、仏教であれ、キリスト教であれ、宗教書は生死の問題をまん中に据えて、そこから信仰の問題を引き出しておりますが、宗教書は別にしまして、生まの人間が己が死生観を、死に対する覚悟のほどを綴ったものは、案外少いのではないかと思います。死というものの多くが何の前触れもなしに突然やってくるものであるということにもよりましょうし、生死の問題を考えるということは、凡夫の場合、死に直面しない限り、なかなかできないということでもあろうかと思います。それからまた死に直面すれば直面したで、人生への訣別の言葉というものは、よほどの人でない限りなかなか素直には綴れないものでありましょう。その意味から言えば、「十冊の本」の編に立ち合ったことは、私にとってはたいへんいいことであったと思います。このお蔭で、何篇かの生死について語った優れた文章に接することができました。

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