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日蓮大聖人・池田大作

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生と死について想うこと 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
1  つい数日前、若い人たちと種々の懇談の機会を持ちました。特にテーマが設けられてあったわけではありませんが、いつか話題の中心は、生と死についての仏教の考え方――仏教の死生観といったようなものになりました。その時、話題そのものとはやや離れて、ある人がこんな感想を洩らしていました。
 ――十代から二十代にかけての頃、自分はしばしば死について、つきつめた深刻な想いを抱いたことがある。死の不安ということが、絶えず念頭から去らなかった一時期があった。だが、今から考えてみると、それは深刻ではあるが、どこかに観念的な色彩が濃かった。それから次第に年齢を取ってくると、もうあまり観念として死というものを問題にする関心は薄らいできた。その半面、死が自分自身の実感として感じられるようになった。と言ったら、言いすぎになるかも知れないが、やはりある年齢に達すると、自分のこれまで生きてきた、過ぎ去った時間よりも、これからの人生の時間の方が、客観的にみても、確実に短いにちがいないという感じに浸されるのではないか。それでいて、不思議に、若い時のようないわば哲学的、抽象的な問題としての死の不安、苦悩というものはない。むしろ、そこにはこれからの人生をよりよく、充実して生きたいという勇気、希望さえこめられている気がする。……
 確かに、その人は、三十代の後半で、そこに居合せた人たちのなかでは、最も年長でしたが、それにしても年齢を取るという表現は、いささか大袈裟ではないか、と周囲から多少冷やかし気味の半畳も入りました。しかし、その明るい、かげりのない調子には、やはり実感がこもっており、決して気障きざな感じはしませんでした。
2  冒頭から、少しく堅苦しい話柄を持ち出して恐縮です。実はこの夏、井上さんの小説作品を幾つかまとめて読ませて戴きましたが、そのなかでもこれもつい先日、『化石』という作品を文庫本で読み終えた折で、私自身、とりわけ感銘深いものがありました。今日のお手紙は、ぜひこの作品について感ずることを記させて戴きたいと思っておりました。それで、この雑談のなかの感想が印象に残っていたわけです。
 井上さんの『化石』という作品は″死″が主題になっております。またそれは逆に″生″が主題であるとも言えましょう。いわば、生と死という人生の根本問題について、正面から取り組まれた作品だと思います。寡聞にして私にははっきりとは言えませんが、日本の文学作品のなかで″死″を主題にして書かれた本格的な長編は、意外に少ないのではないかと思います。それだけ、これは小説としては扱いにくい、困難な主題である証左でありましょうか。
 死をたんなる一般的な想念や、他人の身の上の出来事としてではなく、自身ののっぴきならぬ現実としてつきつけられた場合の人間は、どのような衝撃を受け、懊悩を内に抱くものなのか、――『化石』の主人公である事業家、一鬼太治平は、その一つのパターンをリアルに私どもの前に提示しています。
 一鬼太治平は、旅先のパリで、まったく偶然的な事情によって、自分が十二指腸腫瘍に冒されており、しかもそれは手術不可能な部所にあり、もうあと一年の生命しかないということを知らされる。その事実を本人が知り、それ以外のだれもが知らないという設定で、絶えず、死という同伴者から離れることができず、その同伴者と内面の対話を続けていく。……
 私は文庫本の小さい活字を眼鏡をかけて追いながら、時々、眼の疲れを休めるために外すのももどかしい思いで読み進みました。死という想念が、一鬼の脳裡に深く取り憑いた時の叙述、――
3  と言って、一鬼は死の問題から、たとえ一時的であるにせよ、解放されているわけではなかった。死と一緒に歩いていた。今まではいつも船津(秘書)と一緒だったが、いまは死と一緒だった。死は一鬼と一緒に、一鬼と同じ歩調で歩いている。一鬼が立ち停まると、死もまた立ち停まる。一鬼が道を曲ると、死もまた一緒に道を曲る。
 一鬼は死という同伴者を連れて歩いていた。このはなはだ香んばしからぬ同伴者は、きのう城崎(パリの医師)から電話がかかって来た時、その時ふいにどこからともなく舞い降りて来て、ぴたりと彼に寄り添ってしまったものであった。それ以来、片時も彼から離れていない。……

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