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日蓮大聖人・池田大作

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烈日の如き人生への想い 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
1  相変らず暑い日が続いておりますが、お元気でお過しの趣、大慶に存じ上げます。私も東京で書斎に閉じ籠ったまま、七月を送り、八月を迎え、八月も半ばになってしまいました。今年は狭い庭にも、終日蝉の声が聞えております。蝉の声を聞きながら、立秋の日の新聞をめくりました。
 暑い時を東京の書斎で過しているためではありませんが、いま好きな言葉は何かと訊かれましたら、″烈日″という言葉を挙げるのではないかと思います。烈しく照りつける太陽に惹かれる気持は、ふしぎなことですが、六十代になってから、年々強くなっているように思われます。いくら烈しく生きたいと思っても、もはやそれが望めないような年齢になって、烈日の下に生きることを追い求めているようなものでありますが、そう望まないよりも、望む方がいいのではないか、そんな気持になっております。
 と言って、私の場合、過去を振り返ってみて、烈しく生きたと言い得るような生き方はしておりません。今振り返ってみると、頗る平凡、平坦な人生行路で、それを今や茫々たる雑草が埋めつくしている思いであります。それだからこそ、今になって″烈日″に惹かれているのかも知れません。ある雑誌に「夕映え」という詩を発表しました。
2  長い雨が終った日、一面に雑草に覆われた庭にかいながら、半日を書斎の縁側の籐椅子にって過した。自分が生きてきた過去の歳月もまた雑草に覆われてしまった、そんな思いが私を捉えていた。
 その雑草に覆われた長い一本の道を振り返り、失意の日を拾ってみようとしたが、失意の日は判らなかった。得意の日を探し出そうとしたが、得意の日もまた判らなかった。みんなぼうぼうたる雑草の中に埋まってしまい、ただ烈しく夕映えの空に向って歩いた時のことだけが思い出されてくる。いついかなる時のことか知らない。赤く焼けただれた天空の一画に向って、烈しく必死に歩いている。天を焼く火の粉を浴びて、俺も、俺の周囲を埋めている雑草もまた赤く燃えている。
3  詩の中に書いてありますように、本当にいつのことか判らないのですが、必死に何事かを為そうとした時の烈しい気持だけが、今も心に刻まれております。それも烈日の下を必死に歩いたという感じではなく、せいぜい赤くただれた夕映えの空に向って歩いて行った、その程度の思いです。それにしても、烈しく何事かを為そうとした気持だけが、生きたということの証しのようなものとして、過去に刻まれてあり、私の年齢になると、その部分だけが生き生きとしたものとして思い出されて参ります。失意の日も、得意の日も、それから長い歳月が経つと、すっかり消えてしまい、真剣に烈しく生きた時の思いだけが、いかに小さくても、消えないで残っているようであります。
 また、最近もう一つ、「夏」という詩を発表しましたので、その詩の一部もお目にかけてみましょう。

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