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日蓮大聖人・池田大作

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武帝と霍去病のこと 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
1  この前、お手紙を認めましたのは五月の初め、中国に出掛ける直前でしたが、今はその三週間の旅から帰り、中国旅行の御報告をかねて、このお便りの筆を執らせて頂いております。
 帰国しましたのは先月末でしたが、それから一週間ほど家に籠って過しました。いつものことですが、外国の旅から帰ると、一週間ほど、書斎の縁側の籐椅子に椅って、旅の日記の整理以外、殆ど何もしないで過してしまいます。こんど帰国すると梅雨期にはいっていて、重く湿った空気の中で、旅のあとの無為の時間を持ちました。主人が暫く留守にしていた庭は荒れ、庭全体が廃園の趣を呈しています。一カ月足らず留守にしたからといって、庭が荒れる筈はありませんが、何となくそのように感じられるのです。小さい花壇の薔薇は伸び放題に伸び、浜木綿の株は勝手に生い茂り、雑草は芝生の庭を埋めております。
 しかし、旅から帰って、荒れた庭に対かい合いながら過す何日かは、私にとってはやはり必要な時間であるように思われます。旅は終りましたが、旅の時間はまだ続いております。旅先きで見たものを改めて書物によって確認したり、旅先きで考えたことを改めて心に刻んだり、訂正したり、補足したり、そのようなことのために必要な時間のように思われます。
 こんどの中国の旅では、ただを起点として、洛陽、西安、延安といった都市を訪ね、再び北京に戻り、それから無錫、上海を廻り、もう一度北京に戻りました。
 二度目に北京に入った時、王冶秋氏にお会いして、山西省永寧寺の碑拓写真をお渡ししました。これは前便で認めましたように長広敏雄氏を煩わして入手できたもので、日本と中国の二人の考古学者の学術交流の仲介という気持いい役を、私が受持たせて頂きました。王冶秋氏はたいへん悦ばれ、私たち日本の作家、評論家のために一夕の宴を設けて下さいました。話は大同石窟、龍門石窟から、西安の大雁塔、小雁塔、さらに法隆寺、薬師寺の塔にまで及び、なかなかそうたくさんはない贅沢な時間の流れている一夜でありました。
2  ここまで認めまして、已むを得ぬ用事のために二日ほどお手紙の筆を執ることを中断されましたが、その間に、留守中の新聞によって、池田さんが私の中国旅行と殆ど同じ時期に、パリ、ロンドン、モスクワと旅行され、たいへんお忙しい、しかし、たいへん意義のあるスケジュウルを精力的にこなされていることを知りました。そしてモスクワ大学名誉博士の称号を受けられたり、モスクワ大学において講演されたり、――池田さんにとっては、おめでたい、忙しい、実に充実した五月であったと思います。またモスクワ大学における講演「東西文化交流の新しい道」の全文も読ませて頂きました。講演の中でお使いになっている含蓄ある″精神のシルクロード″という言葉、それから文化交流が、あくまで相互性、対等性に貫かれているものでなければならぬという御指摘、その他いろいろ感深く読ませて頂きました。いずれ、こうした問題についてはお話を伺ったり、お話申し上げたりする機会があると存じますので、ここではただ、稔り多い旅から恙なくお帰りになったことについて、お悦び申し上げておきます。
3  相変らず重い、湿った空気が漂っている日が続いております。再び私のこんどの中国の旅のことに戻りますが、洛陽、西安という古い二つの都市を訪ねましたので、その二つの古代の都で、心に刻まれたことを、一つ二つ拾って記してみることに致します。
 西安の方は十二年前に訪ねており、こんどは二度目の訪問ですが、洛陽の方は初めてでした。洛陽では、古いものでは龍門石窟も見たいものでしたが、一番知りたいことは、洛陽の名が初めて歴史の上に出てくる東周の都としての洛陽が、地理的に現在の洛陽市といかなる関係にあるかということでした。
 ――東周の城は、どの辺にあったでしょう。
 これが、私が東京から用意して行った質問でありました。洛陽に着いた日、洛陽市内から郊外にかけて案内される自動車の中で、私はこの質問を初めて口から出しました。すると案内してくれている人たちの一人が、やがて郊外の一画で自動車を停め、
 ――この地区が東周時代の洛陽であるとされています。ただ現在はその上に労働人民公園が作られています。
 と知らせてくれました。付近一帯は新しく幾つかの大工場が造られつつある地区で、それぞれの工場の傍には労働者の大きなアパートが造られていますので、工場地帯と言ってもいいし、住宅地帯と言ってもいいような地域でありました。
 労働人民公園の内部にははいりませんでしたが、樹木が鬱蒼と生い茂っている大公園で、その公園の下に紀元前二、三世紀頃の東周の古い都は眠っているわけであります。私はこの古代遺跡に対して採っている措置に感心いたしました。その一画を住宅地帯にもせず、工場地帯にも組入れないで、その上に大きな公園を造っているという遺跡保存の方法はみごとだと思いました。発掘しなければならぬ時には比較的容易に発掘できるわけでありますし、発掘しなければならぬ時が来るまでは安全に保存することができます。しかもその遺跡の上は公園として、洛陽市民の憩いの場所として使われているわけであります。
 もちろん、日本の奈良や、飛鳥の場合はこういうわけには参りません。中国の場合は国土が広いので、このようなことができるのでありますが、しかし、それにしても、なかなかしゃれた、賢明な遺跡保存の方法であると思いました。

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