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日蓮大聖人・池田大作

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″永遠″に触れること 井上 靖  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

前後
1  薫風渡る五月の書斎の窓辺で、お手紙拝読、御近況ならびに、こんどの中国旅行に於ての御心境の一端を承ることができ、久しぶりで爽やかなひと時を過させて戴きました。
 北京においてシアヌーク殿下とお会いになったことは、新聞の報道で承知しておりました。日本人で同殿下にお会いになったのはプノンペン解放後では池田さんが最初であると、新聞に書かれてありましたが、なるほどそうであろうと、そのことを感深く思いました。
 一人の自由な思想家として、人間と人間との心の触れ合いを基調にして、そこから生れるものに大きい意義と価値を認め、それを激動下の世界に結びつけようとする池田さんのお立場が、長く続いた内戦の終結という歴史的地点に立っているカンボジアの気鋭な指導者には、最も信頼でき魅力あるものとして受取られたことであろうと思います。
 武漢大学に於ての日本書籍の贈呈式に出席なさいましたことも、これまた新聞に報じられてありました。文化交流と簡単に申しますが、その実践はなかなか難しいことだと思います。日本語書籍をたくさん、確か三千冊とか承りましたが、中国の大学にお贈りになるお仕事は、将来日中両国親善の上にどのように大きく実を結ぶことでありましょう。私の著書もその中にお収め下さってあるとのこと、誰からか聞きまして、たいへん嬉しく思いました。
 武漢大学の日本語教師をされている呉月娥女史と一人の訪中日本人学生のお話、それに関連して魯迅と藤野先生との人間的触れ合いに及ばれたくだり、繰返し、感深く読ませて戴きました。
 私もまた国と国との関係は、政治の形や国柄とは別に、人間一人と一人の友情の交流から出発しなければならぬと固く信じています。政治というものは、そうした人間関係を超えたもっとつめたく非情なものだという考え方もありますが、政治もまた人間が携るものである以上、人間的心情と無縁なところに成立するものではないと信じます。もし人間の真情や人間関係の持つ誠実さを無視したところに成立する政治であったら、現下のこんとんとした世界情勢に対して、いかなる寄与ができるでしょうか。
 昨年の秋、日本で「漢唐壁画展」が開かれましたが、その開期中に中国の王冶秋おうやしゅう氏が来日されました。御存じのように王冶秋氏は国家文物事業管理局局長という要職についておられる方ですが、中国古文物研究家として国際的に知られている学者です。
 私はまた中国を訪ねる度に、氏のお世話になっております。故官博物院を案内して戴いたり、特別に見たいものを見せて戴いたりして、お目にかかる度にその学殖がくしょくと温厚篤実な人柄に対して、長敬の念を深めております。
 氏が来日された翌々日、私は氏にお目にかかりました。その時、日本に来て真先にどなたとお会いになったかとお訊ねしましたところ、氏は考古学者の原田淑人よしと先生のお宅を訪問したと答えられました。氏と原田淑人氏とがいかなる間柄であるか知りませんが、私はその時、なるほど王冶秋氏らしい訪問先の撰択だと思いました。
 氏は何日か日本に滞在されて帰国されましたが、それから何ほども経たないうちに、私は新聞で原田淑人氏の訃を知り、何か胸に迫るものを覚えました。王冶秋氏は、おそらく外国の学者として原田淑人氏を訪ねた最後の人であろうと思いました。そしてお二人は会えてよかったと思いました。これはただこれだけのことですが、しかし、純粋に学問で結ばれていたに違いないお二人の関係は、深くは判らないながらも、私にとってはある感動を覚える事件でした。
 この王冶秋氏について、もう一つ、ここで御報告しておきたいことがあります。原田淑人氏を訪ねられた昨秋の来日の折のことですが、私は王冶秋氏から一つのことを依頼されました。
 ――日本に山西省の永寧寺という寺の碑拓があると思います。そのことについては、亡き内藤湖南先生がどこかに書いておられたと思います。その碑拓の写しか写真を手に入れることができたらと思います。その碑の裏には女真文字と契丹文字が刻まれています。
 氏は言われました。もちろん通訳を間に挟んでのことです。私は専門家ではありませんので、そういうものがどこにあるか全く見当はつきませんし、それを見付け出す手がかりというものも思い浮んで来ませんでしたが、できるだけ努力してみましょうと返事をしました。
 それからニカ月ほど経って去年の暮も押し詰まった頃、私は京都で長広敏雄氏(京都大学名誉教授)にお会いしました。ある雑誌社が関係した宴席でした。その折、私はふと王冶秋氏から依頼された永寧寺という寺の碑拓のことを思い出し、そのことを氏に話しました。すると長広氏は、自分は王冶秋氏にお世話になったことがあり、そのことに恩義を感じている、自分がその碑拓というのを探してみようと言われました。
 そして長広氏はその時、王冶秋氏に恩義を感じているというそのことについて話されました。
 ――十年ほど前、中国と日本の国交がまだ正常化されていない頃、永楽官壁画展が日本で開かれたが、その時王冶秋氏が団長として来日された。確か、氏はその折初めて日本に来られたのではなかったかと思う。その時何人かで氏を奈良に案内し、奈良ホテルで食事をした。食事の席で、私は南陽の画像石の拓本のオリジナルものが日本にないということを話した。これは十月のことであるが、その年の年末に、ある人の手を通して、王冶秋氏から八十点の画像石の拓本が届けられて来た。食事の席で口走ったことが、まさかこのように早く形をとって現われて来ようとは思っていなかった。国交も正常化されていない時のことではあり、全く夢のような話で、氏の好意が実に嬉しかった。その拓本は現在京大人文科学研究所に保存されている。――
 大体長広氏のお話はこのようなものであったと思います。このように王冶秋氏にはお世話になっており、同時にそうした場合における学者としての氏の真摯さと誠実さに感動しているので、こんどは自分の方で王冶秋氏のお役に立ちたいというのが、長広敏雄氏の気持であったようです。
 そして、長広氏は、まさにそのようにされました。氏から永寧寺の碑拓の写真数葉が、私のところに届けられて来たのは、つい二、三日前のことであります。いまその現物は私の手許にあります。
 私は五月八日に作家代表団の一員として、招かれて中国の旅に上ります。北京で王冶秋氏にお目にかかれると思いますので、その折、長広敏雄氏が長く持ち続けていた氏に対する感謝の気持を伝え、長広氏に代って、永寧寺の碑拓を王冶秋氏に手渡したいと思います。
 私は王冶秋氏と長広敏雄氏の関係こそ、池田さんが希まれている″交流の原型″というものであろうかと思います。温い人間的触れ合いが、すばらしいことをなしとげている好個の例ではないかと思います。一国の文化と文化の交流は、このように人間的心の触れ合いを通して行われねばならぬものでありましょうし、事実また、古来こうして行われて来たものであろうと思います。
2  話は変りますが、北京から武漢へ列車でお向いになったそうですが、私もまた二十年ほど前に、やはり作家代表団の一員として、招かれて中国に渡り、列車で広州から武漢を経て北京に向ったことがあります。池田さんの場合とは逆のコースをとったわけであります。
 その折、私もまた大陸の大きさというものを知り、武漢長江大橋を渡って大揚子江の流れというものを初めて眼に収めました。
 長江の流れは季節、季節で、その大きい流れの表情を変えると言われておりますが、私がその岸に立った時は、黄土の移動というか、エネルギーの移動というか、そのような壮んなものとして眼に映りました。しかし、その大きい流れの岸で、何人かの女の人たちが甕を洗っている姿を発見した時、長江の流れは少しく異ったものとして眼に映って来ました。太古から流れ続けている大河の畔りで、小さい人間の生活は太古から少しも変ることなく、今日もまた営まれている、そんな感慨がありました。こうなると、揚子江の流れは悠久な何かでした。同じ黄土の流れではありますが、単なる黄土の流れとしてだけは見ることができなくなりました。その流れが太古から続いているように、人間の営みもまた、その岸で大古から続いているのであります。
3  ――揚子江の岸で、手を赤くして甕を洗っている女たちを見た。私もまたそのようなところで、そのようにして私の文字を書きたい。

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