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日蓮大聖人・池田大作

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友好そして師と弟子 池田大作  

「四季の雁書」井上靖(池田大作全集第17巻)

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1  先日、中国訪問の旅から還って参りました。昨年六月に初めて訪れ、さらに年の暮の再訪に続く三度目の訪中です。今、深夜ひとり机に向かって、この書簡を認めていますと、ゆくりなくも旅の間に邂逅かいこうした人々の面影が鮮やかに脳裏に浮かんできます。あの人は今、何をしているだろうか、どんなことを考えているだろうか――そんなとりとめもない想いにふけっていると、ふと、一人の人間と人間との一期一会の出会いを、尊くもまた不思議な深い味わいをともなって、懐かしく思い出さずにはいられません。
 北京の四月は、白い陽光が眩しいほどでした。このまえ訪れた時には、寒々とした冬空に、葉のすっかり落ちた枝を伸ばしていた柳樹や揚樹も、光の波を浴び、若い緑は溌剌として、時に金色にさえ光るのです。黄いろの迎春花、桃の花、白い梨の花――北京の街は、華やいだ色彩にあふれていました。
 春たけなわといったなかで、私は思いがけなく、カンポジアのノロドム・シアヌーク殿下との会見の機会を得ました。シアヌークとは「獅子」を意味する言葉だそうですが、まさに久しい雌伏の時を耐えてきたこの「獅子」に、私は鮮烈な印象を受けました。それはプノンペン陥落、そして五年間の内戦の終結という報道に接した、その翌朝という歴史的な時点の故であったからかも知れません。会見では勢い政治的な話題に触れざるを得なかったわけですが、しかし私は、話題そのものよりも、元首府の接待室の壁に掛けられた一枚の絵に、深い感銘を覚えました。それは深いブルーの色を基調としたアンコール・ワットの絵でした。
 今を去る十四年前の二月、私はこのアンコール・ワットの遺跡を訪ねたことがあります。一面の奥深い樹海の中に、忽焉こつえんとして現れる、塔と回廊と階段から構成されたこの遺跡は、クメールの眠る遺産とも神秘の微笑とも言われていますが、この世のあらゆるものと絶縁して、歴史がひっそりと実在しているといったようなこの一角で、私は尽きぬ感慨にふけったことを憶えています。
 シアヌーク殿下は、母堂が重病であることに触れ、そのため直ちに帰国はできない、帰国の際は、プノンペンでなく、まずアンコール・ワットになるだろう、と沈んだ口調で語っていました。すでに母堂の死を覚悟されているらしく、埋葬のためにアンコール・ワットに帰るということです。民族の勝利の日に、母の危篤を悲じむ、この劇的な殿下の姿に、私は人ごとならぬ感情に沈みました。そして私は、ブルーの色濃い絵にじっと眼をこらしました。
2  この折の対話のなかで、殿下が大国の干渉・圧迫と断乎戦い続けてきた体験を語り、「私は闘争には慣れている。どんな困難も私を疲れさせることはできない」と不屈の信念を吐露された時、毅然として迫力に満ちた、優れた一人の指導者を私は見ました。一人の人間の精魂こめた闘いと、その裏に秘められた人の世の悲哀といったものが、瞬間、私の脳裏にはしったのです。民衆は嵐のような歓呼をもって、やがて殿下を迎えるにちがいない。しかし、今、私の胸に去来するのは、あの静寂に満ちた接待室のなかで、ひとリアンコール・ワットの絵に母を想う人の姿であります。
 シアヌーク殿下は、終始、微笑をたたえて話をされていました。民族自立への滔々たる歴史の奔流のなかで、あの神秘のクメールの微笑が、今や自信と衿持とをともなって、蘇ってきたような活々とした微笑です。歳月の変遷にも、歴史の転変にも、ついに消滅することなく、じっと民族の心の奥底で永らえたもの――それが辛苦の時、艱難の季節に、民族の生命に点火され、今、新たなエネルギーとなって噴出し、民族の存在を輝かせたように思われました。
 私はいつの日か来るであろう、殿下との再会に思いを馳せました。その時は、政治の中心地プノンペンではなく、民族の歴史と文化を秘めたアンコール・ワットでの再会でありたいと願いました。私は、世界の一庶民として、殿下もカンボジア生まれの世界の一人物として、友として人生を語り合えたらと思います。これこそ、いずこにあろうと、私のつねに希っている心情であることは言うまでもありません。
3  ところで、今回は、初めて武漢を訪れました。北京から列車で十七時間の旅程でしたが、あらためて中国大陸の広大さが実感されました。窓外の光景は、どこまで行ってもほとんど変化がなく、赤土が地平線の彼方まで拡がっているばかりです。武漢は″落雀らくじゃくの都″――雀も落ちるほど、夏は厳しい暑さに見舞われることから、そう名付けられているそうですが、むろん今はまだ雀が落ちるほどではありませんでした。
 武漢訪問の公式目的は、武漢大学へ贈ったささやかな日本語書籍の贈呈式に出席するためでしたが、実はもう一つ、私にはひそかな愉しみがありました。それは私の中国の友人の一人である、武漢大学の日本語教師をされている呉月娥ごげつが女史との再会です。
 呉女史は昨年四月に来日し、しばらく日本に滞在しておられたのですが、女史と私との出会いには、実は、こんな機縁があったのです。――ちょうど二年前、武漢大学を訪れた日中友好学生訪中団員の中に創価大学の学生がおりました。その折その学生と呉女史は相識り、その縁から、女史はその後、来日して、創価大学を訪問されました。その際、私は三度ほどお目にかかり、ともに食事をしたり、卓球に興じたり、ピアノを弾いたりという、心愉しい一刻を持った友人となりました。
 それからほぼ半歳余を経ての今度の再会です。武漢大学へ到着すると、数多くの学生が私たち一行を迎えてくれました。最前列には、呉女史が、三人のお子さんを連れて立っていました。私たちは、互いに駈け寄って握手しましたが、その瞬間、私は、久闊きゅうかつのなごむ思いを覚えました。
 呉先生は、溌剌として、明るい、そして気さくな女性ですが、呉月娥女史と一人の日本人学生との触れ合いから始まった、このような中国と日本の友情の交流は、現代において、私には非常に貴重なもののように思えてなりません。なぜなら、一人ひとりの人間同士の自然な接触が積み重なり、それがあたかも山頂を支える広い裾野のようになって、はじめて国と国との真実の友好の山頂が確立されるものであると、私は信じているからです。いわば、一人と一人との交流の背後には、それぞれ異なる国の民衆の大海があり、その細い無数の交流が互いの海水を注ぎあって、はじめて友好の海となる。その集流の一滴一滴を、私は尊びたいのです。

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