Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「第二の枢軸時代」の要件  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 あなたは、新しい世界宗教の台頭の時代ということを述べられていますが、私は、その時代を、ドイツの哲学者ヤスパースになぞらえて言えば「第二の枢軸時代」ととらえております。
 ご存じのようにヤスパースは、紀元前五百年ごろ、さらに紀元前八百年から紀元前二百年の間を、「枢軸時代」と呼び、人類史におけるこの時代の重要性を訴えました。この時期には、釈尊、孔子、老子、そしてイザヤ、ヘラクレイトス、プラトン、アルキメデスなど、世界史に不滅の輝きを放つ宗教的・哲学的・思想的偉人が数多く出現したからです。まさに、ヤスパースが述べたように、この時代に、実現され、創造され、思考されたものによって、人類の今日の基盤は形づくられたと言えます。
 そして、ヤスパースは、この時代の特徴として「人間が全体としての存在と、人間自身ならびに人間の限界を意識した」(「歴史の起源と目標」重田英世訳、『世界の大思想Ⅱ―12』所収、河出書房新社)と語っております。
 私は、現代もまた、人類の未来を開く大きな転換期であり、恒久の流れを決する精神の遺産を残すべき時代に入ったと痛感しております。
 今や人間は、一瞬にして人類を死滅させることのできる核兵器を生み落とし、全地球的規模での破滅の危機にさらされるにいたり、国家の枠を超えて、全地球という視点をもたざるをえなくなってきています。そうした時代の必然的な要請を包み込み、永遠なる人類の在り方を提示する思想、哲学、宗教の台頭が望まれていると言えましょう。
 そのさい、最も重要なものは「内在的普遍」というメルクマール(指標)であると思います。ヤスパースのいう「枢軸時代」がもたらした最大の価値は、やはり個の尊厳の自覚でした。
 ところで、その個の尊厳がどのようにして自覚されたかと言えば、個人が一人一人で、部族や国家を超越した「普遍的なるもの」に連なったとき、初めて「普遍的なるもの」のもとで万人の平等観、個の尊厳観も生まれたわけです。
 ところが、その後の歴史的展開が示しているように、その「普遍的なるもの」はどうしても「超越的普遍」の色彩が強かった。超越神を仰ぐキリスト教のような一神教は、文字どおりそうですが、儒教の「天」や、仏教の「法」などにしても、程度の差こそあれ「超越的普遍」に傾くきらいがありました。
 仏教の「法」のように、本来は「内在的普遍」であったものも、真実、そう働いてきたかというと、未だし、の感が強く、むしろ課題は今後に残りそうです。
 「第二の枢軸時代」は、何にもましてこの「内在的普遍」が旗印とされなければならないでしょう。イデオロギーや民族、貧富や貴賎、男女や老若……一切の差別に関係なく、生命に深く内在する“宝”を掘り当て、その薫発された人間性、人格の力をもって、万人の平等観を敷衍させていかなければなりません。前にも述べましたが、私の信奉する日蓮大聖人は「一人を手本として一切衆生平等」と仰せになり、一人の生命の内在的掘り下げと、その普遍化の方途を示されております。
 それゆえ、私は、以前より「創価学会の社会的役割、使命は、暴力や権力、金力などの外的拘束力をもって人間の尊厳を侵しつづける“力”に対する、内なる生命の深みより発する“精神”の戦いである」と訴えているのです。
 「国益」から「人類益」へ、「国家主義」から「人類主義」へと、発想を転換させゆく哲理の台頭――そこに、新しい世界宗教の意味もあると考えますが、あなたはどうお考えですか。
 イザヤ
 前八世紀のイスラエルの預言者。
 アルキメデス
 前二八七年ころ―前二一二年。ギリシャの数学者、物理学者。
2  アイトマートフ あなたが取り上げた問題は、人類の知的発達の途上において、さまざまな時代とさまざまな教義の哲学思想を全世界的に総合しようとする、まさに総体的テーマの一つです。
 このテーマをつづけることは、一介の文士にすぎない私にとっては荷が重すぎるように思います。というのは、「鍛冶屋は自分の鉄床を使ってのみ名人」なのですから。したがって、これから私が申し上げることは、たんに主観的な判断であって、決して学問的なものではありません。
 あなたはその総合の中に時代の継承性を見ていらっしゃるし、人間精神の未来の開眼の中に「第二の枢軸時代」の新たな復活を、あるいは、より正しく言えば、その継続を予測していらっしゃいます。あなたの予測なさっている諸教義の総合を直接感じ取るためには、たとえ人間の一生は短すぎるにしても、しかし、それは偉大な知的発見です。
 結局のところ、人間の内面世界は思想と発見の巨大な銀行です。この銀行への「預金」はかならず年々殖える進歩の「利子」をもたらします。人間は個人としての自分自身を創り上げています。そして、それらが私たちの存在の最高の目的です。私は生と文明の意味をそのように理解しています。
 しかし、実際には、すべてがそのようにうまくいくものではありません。
 人間の道は歴史の迷路の中で、あまりに長く、痛ましく、複雑に、しかも矛盾に満ちています。人間をみずからの利益に奉仕させようとする制度的な力が、つねに現れるからだけではありません。かえって、人間自身が、自分を生命力に満ちた偉大な最高の機関としてかならずしも自覚していないからです。日常の雑事が私たちを損ない、あらゆる時代において個人を「未熟な」ものにしてしまっています。
3  例を挙げましょう。古代の人々、たとえば、ヘラクレイトスや老子の正しさを確信するまでには、二千年以上にわたる試練と探究が必要でした。
 ヘラクレイトスは次のように言っています。「英知の輝きは、すべては同じ一つのものである、ということの中にある」。また老子は次のように言っています。「もしも真の知識があれば、人は大道を歩むであろう。私が何を恐れるかと言えば、それは狭い小道である。大道は完全に平らであるが、しかし民衆は小道を好む」
 二千年以上が経過して、科学は、この宇宙のものはすべてが互いにつながっていること、ある場所にふれれば他の場所で反応が生ずること、環境に対する恣意的な態度は許されないこと、勝手気ままな態度は悪循環を生み、進歩の代償として環境が毒されてしまうこと、生命の法則は、人間の野望が押しつける異質なるものを最終的には拒絶してしまうことを確認しました。……そしてまたもやヘラクレイトスは正しかったことになりますが、「大多数の人々は自分がどういう局面にいるのかがわかっていない」のです。二十世紀にもなって! なぜでしょう?
 古代の人々が言っているように、初めから存在しているものは幸福と世界理性です。道徳律も存在しました。それらが進化の過程を決定しています。すべてが人間によって左右されるわけではありませんが、しかしすべては人間によって意味づけられます。
 人間がこの世に現れたのは、人間を通じて精神の自己認識と総体的救済が行われるためです。つまり、「あらゆる創造物について、人間について、鳥について、動物について、悪魔について、そしてあらゆる生き物についての人間の燃え上がる思い」を通じて、それを行うためです。
 これはイサーク・シーリンの言葉ですが、エヴゲーニイ・トルベツコーイは『色彩についての考察』の中で、この言葉を引用して、さらに次のように付け加えています。「人生の意味についての問題が、おそらく、世界悪と無意味さがむき出しになった現在ほど鋭く提起されたことはかつてなかったことである。……この世が始まって以来、前代未聞のこの精神の奴隷化は、すでに原則となり制度にまでなっている野獣化であり、今まで人間の文化の中に存在したすべての人間的なものの拒否である」――そのことを私たちは思い知らされ、その苦杯をなめさせられています――。そして次のように結論しています。「人間は人間のみにとどまっていることはできない。人間は自分自身よりも高まるか、奈落に落ちるかのどちらかであり、神になるか野獣になるかのどちらかである」
 闇が最終的に人間を飲み込んでしまわないうちに、闇か光か、の選択をする以外に活路はありません。しかもどこかの遠い所ではなくて、自分の心の中においてです。また、いつかではなくて、今すぐにです。

1
1