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日蓮大聖人・池田大作

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生命のドラマ・法華経  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 仏法の根本をなす教えは法華経であり、私どもが信奉する日蓮大聖人の仏法も法華経を拠り所としたものです。この法華経の最大の特徴は、すべての人々の成仏、すなわちすべての人々が仏法の法理をわがものとし、真の幸福境界を確立できることを説いていることです。
 そこに一貫しているのは、一切の人々を包容する平等思想であり、すべての人に、仏と等しい尊極無上の生命が備わっていると説いていることです。そして、法華経の説法は、生命のドラマとして展開されていきます。
 その説法の中心部分は、「虚空会」と呼ばれ、虚空に繰り広げられる荘厳にして壮大な儀式であります。初め霊鷲山という山で説法が行われ、次いで、巨大な「多宝の塔」という七宝(金・銀・瑠璃・玻璃・碼碯・真珠・玫瑰)で荘厳された塔が出現して空中に浮かび、そこにいた大衆も同じく空中に浮かんで、儀式が行われると説かれております。
 こうした現実離れした、不思議に思える展開に、じつはきわめて深い意味がこめられています。まず巨大な七宝の塔は宇宙を貫く根源の法である妙法そのものをさすとともに、私どもの生命を意味しております。一個の生命がいかに荘厳なる輝きと壮大な広がりをもっているかが、示されているわけです。
 この説法で、釈尊は久遠の昔にすでに成道していたことが明かされ、仏の生命は永遠であることが明かされます。いわばここでは、釈尊は歴史上の釈尊ではなく、真理としての釈尊であり、大地を離れ、虚空で説法が行われたことは、時間・空間の歴史的な制約下にある釈尊を離れることを物語っております。
 さらに、そこには、仏も釈尊のほかに多宝如来、三世十方の諸仏すなわち過去世、現在世、未来世の全宇宙の仏が来集します。それは、釈尊の教えが、時間的にも空間的にも無限の広がりをもった教えであることを象徴したものと言えましょう。
 そして、多宝の塔の中に釈尊が入りますが、これも歴史上の釈尊を離れて、あらゆる衆生の生命に、共通の真理として仏性があることを象徴したものと言えましょう。
 また、釈尊は、大地の底から六万恒河沙の地涌の菩薩――地より涌き出てくるゆえに、こう呼ばれます――を呼び出します。恒河沙というのはガンジス川の砂粒のことで無数を意味しますが、それがさらに六万もあるというのです。
 法華経には、時間や空間を表す数字が随所に出てきますが、いずれも途方もなく大きな、私たちの通念を超えたものです。これは無数、無限、永遠につながるものです。
 こうした法華経の説法は、歴史上、実際に行われたというより、釈尊の己心に展開されたものであり、生命の宇宙的ドラマであると考えられます。
 たしかに、一見おとぎ話のようなこの説法は、現代人の通念から見ると、荒唐無稽に思われるかもしれません。しかし、私は、そうした通念の曇りこそ、科学や合理主義の美名に隠れて、現代人の感性を鈍らせ、瑞々しい想像力を奪い、精神の貧困化をもたらしたものとさえ思っているのです。
2  ベルジャーエフは、時間には「宇宙的時間」「歴史的時間」「実存的時間」の三つがあるとしています。「宇宙的時間」とは、循環的な、暦と時刻をともなった太陽系の規則的運行の時間であり、「歴史的時間」とは、現在を過去に変形させ、未来へと進む時間です。そして、「実存的時間」とは、深処の時間であり、いかなる数学的時間にも順応することのない永遠の現在、超時間的時間です。
 そして、「実存的時間」の一瞬間は、他の二つの時間の長年月が有する以上の、意義、充実、持続を有しているとしています。
 いうなればベルジャーエフの言う「実存的時間」とは、この法華経に展開されている時間の概念に通じるものであり、近代歴史学でいう“史実”とは、別次元の世界で展開されているのです。
 実際、ベルジャーエフの言う「宇宙的時間」と「歴史的時間」だけに限られているとすれば、歴史は、何のドラマも想像力の働きもなく、砂をかむような味気ないものになってしまうでしょう。
 かつてニーチェが「生に対する歴史の功罪」を論ずる中で「歴史的なものと非歴史的なものとは、個人なり民族なり文化なりの健康のために等しく必要である」(大河内了義訳、『ニーチェ全集 第二巻(第Ⅰ期)』所収、白水社)とし、さらに「非歴史的なものとは覆い包む雰囲気のようなもので、その中で生命が生命を生み育み、この雰囲気を否定すれば、生命もまた消失してしまう」(同前)と訴えたのも、学の精密化が進む反面、肝心の人間の生命力や想像力を枯渇させかねない、近代歴史学の通弊を鋭く突いたものと言えましょう。
 それらの意味をふまえたうえで、この法華経の説き方について、どのようにお考えになられるでしょうか。
3  アイトマートフ 尊敬する池田先生、あなたが討議のために提起なさっている問題を見ると、あなたの関心と知識の範囲がいかに広いかがわかります。しかもその中にはユニークなものもあります。まさに法華経がその一つです。
 しかし、残念ながら、私はまったく違った雰囲気の中で育ち、弁証法的唯物論の立場に立つ教育を受けてきた人間ですから、仏教哲学の分野であなたの相手をつとめることは非常に困難です。けれども、あなたの発言は現代人を無関心にしてはおきません。そこで、もしお許しくださるなら、あなたのお話の過程で遠いこだまのように喚び起こされた考えを述べてみたいと思います。
 生命のドラマは私たちの本源的なパラダイム(体系)だと私は思っています。それゆえに、永遠のドラマについて考えるさいに、限られた現実の枠にはまった具体的な運命をひきあいに出しても、あまり要を得ないかもしれません。
 それぞれの具体的な人生を例に持ち出しても、すべての作業は、自分の経歴を規定するまったくの外的要因を解明するか、非難するか、あるいはもう一つのバリエーションとして、弁護するか、ということだけになってしまいます。そして最後には、自分の人生に自己満足して、あらためて別の人生を送れと言われても、つまりもっと正しく、もっと敬虔にと言われても、それはご免だということになってしまうのではないでしょうか?
 そこで思うのですが、私たちが自分自身に対して、自分の運命に対して、失ってしまった時間に対してつねに感じている内面的な不満、つまり“大いなる未完成”の思いを、法華経の精神は包んでくれるものではないかと思います。言い換えると、潜在的に、私たちは自分自身の目で見てさえ、もっとずっと意義深い存在になりうる素質をもっているのだと思います。
 しかしここで「若者は知らず、老人はできない」という古典的な諺を思い出さざるをえません。問題の皮肉さは、「永遠の問題」――「生命のドラマ」も疑いもなくそこに入ると思いますが――を、私たちが、物理的に知覚しうる時間と空間の枠の中で、「生きることに気がせいて、感ずることも急がるる」とばかり、直接に日常的なレベルで解決し、理解しようと無益な努力をしようとしていることです。しかもここに引用した言葉が生まれたのは現在ではないのです。
 すべてが以前には考えられなかった途方もない速さで進み、世界がまるでファッションのように文字どおり目まぐるしく変わっている現在なら、何と言ったらいいのでしょう? 人々は何が何でも追いつこうと必死になっています。そしてこの狂気の競争では多くの人がへとへとになります。その結果、プラグマティズムが好まれて、すべての抽象的なもの、いわゆる「高尚な話題」は軽蔑されるようになります。

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