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日蓮大聖人・池田大作

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九識論と深層心理学  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 さて、私たちの「内面への旅」も、ラストコーナーにさしかかってきたようです。これまでさまざまな角度から、東洋思想の輪郭についてふれてきましたが、東洋思想の精髄とも言える仏法では、人間の内奥について、いかなる洞察をしているかを述べてみたいと思います。
 仏法では、人間に備わった、物事を識別しうる心の作用に九種あるとし、これを九識論として展開しております。
 まず、人間は、眼、耳、鼻、舌、身(五根)をとおして、色・形、音、香り、味、感触など外界の状況をキャッチしていきますが、この感覚器官による物事の識別を五識と呼んでおります。これらは、いわゆる感覚的意識であり、その感覚のみに頼った生き方は、植物的生、動物的生の域を出ません。
 次に、こうして感知した情報を比較検討して考察を加え、判断していく心の働きがありますが、それが第六識にあたる「意識」です。いわば理性や知性による心の働きです。
 しかし、だれしも、心の底から突き上げてくる激しい衝動によって、理性的な判断が歪められたり、頭ではわかっていても、激情を抑制しきれないといった体験をもっていると思います。その欲望、感情、衝動のエネルギーが渦巻く心の世界が、もう一つ奥にある第七識の「末那識」です。これは「思量識」とも言い、理性や知性の基体をなす無意識の世界におよぶものであり、深層心理学者の言うアイデンティティーの基体も、ここにあると言えます。
 しかし、この心に渦巻く、権力、権威などに執着する無意識的な衝動、生と死の衝動、エゴイズムの感情などが、理性、自我の基体にまといつき、それが発現することによって、六識の思慮分別の働きは狂わされていきます。
 ユングは自己意識の主体を求めて、自我の底に意識層を見いだし、その底に個人的無意識層を探し当て、そこに誕生以来、記憶としてとどめられてきた心的内容と、抑圧されてきたものが沈潜しているとしました。この個人的無意識層は、「末那識」にほぼ相当するものと言えましょう。
 この「末那識」に立脚した生き方は、交錯する衝動にさいなまれ、愛と憎、創造と破壊の間を目まぐるしく揺れ動くものとならざるをえません。
 仏法は、さらに「末那識」を突き抜けた奥に、第八識の「阿頼耶識」という、永遠にとどまることのない生命の根本の流れを見いだしました。
 阿頼耶とはサンスクリットのアラーヤの音写で、漢訳すると「蔵」となり、万物を生みだす“生命の種子”の住居を意味しております。そして、私たちが、思い、考え、語り、体験したことや民族などが経験してきた歴史なども、すべて香りが衣服に移り香を残すように、この生命の深層の「阿頼耶識」に蓄積されていく。それが、やがて種子が発芽するように、次の生命活動を生みだす。この永劫の繰り返しであると説いています。
 自身の生命は、渾然一体とした根本の生命流に潜在していきますが、その特質は消えることがありません。また、善にも悪にも染まっていきます。
 ユングは、個人的無意識層の奥に、集合的無意識層を発見し、その上部には民族感情など集団に共通する情動が、次に宇宙の中核からの噴出物が、最下層には、決して意識化されない内容物があり、そこには、すべての民族、すべての人の経験が、一切組み込まれているとしています。その考えは、「阿頼耶識」にきわめて近いものと言えましょう。
 そして、仏法の洞察眼は、またさらにその奥に、「阿摩羅識」とも「根本浄識」とも「九識心王真如の都」とも言われる宇宙万物の根源、生命の究極の実在を見いだします。これは私たちの生命流の源泉であり、善や悪などの相対的な区別をも超えたすべての実在を生みだす根源の力であり、いわば、宇宙意識、宇宙生命と言えましょう。
 この根源の生命に立脚するとき、「宇宙即我」といった無限大の自己の境界の広がりがあり、自身の欲望や衝動さえも、人間完成へのばねとしてコントロールしていくことのできる創造的生命の確立があることを説き示しています。私はそれを「人間革命」と呼んでおります。
 ところで、戦争にせよ、闘争にせよ、人間社会の一切の争いは、エゴイズムという問題を抜きにしては語れませんが、こうした心の構造を見ていくとき、たんに道徳や倫理をもってしては、とうていエゴイズムの問題は解決しえないと言わざるをえません。
 道徳、倫理は、理性に発するものであり、それは九識で言えば、ほぼ六識の次元にとどまります。それゆえに、欲望や感情の衝動を突き抜けた、さらにその奥、宇宙生命に立脚した自身を築いていく以外に、エゴイズムを超えゆく道はないと考えます。
 以上、九識論という観点から仏法の生命観の概略を述べてみましたが、この仏法の考え方に対するご意見をお聞かせください。
 サンスクリット
 梵語。完成された語という意で俗語に対する雅語。インド・ヨーロッパ語族に属する古代語。
2  アイトマートフ あなたは意識と無意識にふれて、その点について整然とした体系をもつ仏教の教えを話してくださいました。私にとってはそれは素晴らしい発見であり、説得力ある心理学的分析です。ついでながら、現代人はそのすべてを知り、自分の中でそれを総合すべきである、と私は思いました。
 私たちの現代文明は人間についてのありとあらゆる教義を包み込み、それらを自己の中で調和させなければなりません。東洋と西洋は地理的にこそ両立できませんが、人間個人の中ではその二つの方角は単一の構成要素をもつ富に合流します。
 しかし、それはどうしたら達成できるのでしょうか? 世界の総合大学に東洋・西洋学部というものを設置して、そこで現在まで伝わってきた、人間についてのあらゆる学問と哲学を学ぶようにする時期が来ているのではないでしょうか?
 腹立たしいことに、大部分の人々は日常生活において、その意味では自分自身を素通りしていて、鏡に自分自身の本質を映してみようとすらしません。
 すみません。本題から少し外れてしまいました。
 しかし、ここで、九種類の認識と深層心理学についての仏教の教えを背景にして、神秘主義というよりは神秘的な世界の詩的現象にかかわりのある、一つの特殊なテーマにふれてみたいと思います。
 ロシアの、まだ古い、革命によって破壊されなかった農村には、星女と呼ばれている未亡人たちがいました。人々の噂によれば、星女たちは自分の死んだ夫とこの世で会うことができるのです。死んだ夫たちは深夜に流れ星となって、天から彼女たちのところへ飛んで来るのだそうです。
 その噂によれば、村の隣近所の人々は、夜、流れ星が未亡人の家のペチカの煙突に落ちていくのを自分でも時折見ると、すすんで証言しているそうです。
 また星女たち自身も、星の姿をして飛んでくる夫の精霊との素晴らしい出会いを語り、その夫は夜明けとともにふたたび飛び去っていくと話して、黒魔術と通じた、すなわち、悪魔と通じたということで嘲笑されたり、非難されたりすることを恐れる素振りはまったく見せないということです。
 それのみか、そのような女たちは人々に尊敬されていて、近しい人々には印象を打ち明けて話し、夫の精霊がよろしく言っていたなどと伝えたばかりか、その出会いがどのように穏やかに楽しく行われたかを話し、何を考えて悲しんだかとか、家のことではどんな話をしたとか、子どもたちについてはどうだったとか、農作のことはどんなに心配していたかと話し、時にはそのような話し合いが知らずしらずのうちに歌に変わり、まるでこの世にいた時のように一緒に好きな歌を歌いました、などと話すのです。ただ、その歌は他人に聞こえないように、小声で、そっと、二人だけのために歌いました、と。
 このような事例にあっては、寂しさの強さ、別離による苦悩の大きさ、望ましい生活を復活させたいという希求などを考慮にいれなければなりません。そのような場合には、意識の中枢に、通常の形態を超えた、非伝統的な超日常的意識が発生し、そのことがそれ自体として魂の変容の無限の可能性を証明するものだと思います。
 ところで、非常に興味深いことですが、「星女」のような現象はキルギスの神話創造意識の中にも見られます。つまり、地理的にまったく異なった場所の、まったく異なった文化的環境の中にも見られるのです。違いはただ一つ、キルギスの場合は、愁いの星がペチカの煙突の中に落ちるのではなく、ユルタの開いている円屋根に落ちることになっています。
 その円屋根を未亡人は星となった夫の霊が訪ねてくることを期待して、夕方から開けておくのです。その先はだいたい同じで、家の中で話がなされるのですが、そこでも一つだけ違いがあります。夫の霊は未亡人に「おれの鞍はどこにある? おまえの鞍も持ってこい」と言うのです。
 二人は鞍を持って、月の光の中で、つないであった二頭の馬に鞍をつけ、生前さながらに近くの野原で乗馬を楽しむために連れ立っていきます。初めは音がしないように並足で進んでいきますが、やがて速足になり、駆け足になって、舞い上がり、まるで鳥のように音もなく空中を飛んでいきます。
 二人は明け方近くに戻り、汗まみれの馬から鞍を外し、鞍を元の場所に納めて、夫の霊はふたたび星となって消えてしまいます。未亡人は星となった夫と夜通し乗馬を楽しんだことの証拠として、翌朝、疾走した馬の汗でびっしょりになった、鞍の下に敷く汗とり布を見せます……。
 このような事柄を考え合わせますと、人間の意識の変容は、脱工業化時代の人工知能というような新しい現象をも含めて、無限であると思わざるをえません。
 ペチカ
 建物の一部として、石やレンガなどで造ったロシア風の暖炉。
 黒魔術
 もと、中世ヨーロッパに見られた魔術で、悪魔と通じた邪悪な魔術。善を目的とした魔術は白魔術。
 ユルタ
 遊牧民の天幕式住居。
3  池田 たいへんに夢多き、またロマンあふれる話ですね。そうした神話やフォークロアの多くは、現代人の常識からは“迷信”として排除されてしまうようですが、それは狭い、誤った考え方だと思います。
 そのことを強調した人に、ベルクソンがいます。彼は一九一三年、ロンドン心霊研究会に議長として招かれ講演しているのですが、その中で、心霊学に対する科学者たちの偏見を批判しつつ、「あなたがた(=心霊学の研究者)のやっておられるような研究を『科学の名において』否定するのは、とくに半学者であります」(「『生きている人のまぼろし』と『心霊研究』」渡辺秀訳、『ベルグソン全集5』所収、白水社)と断じております。そして「半学者」の一つの例として、ある著名な医学者の、次のような心霊現象への批判を挙げています。少し長いですが――。
 「あなたがたが言われることはみなわたしにはたいへん興味がある。しかしわたしはあなたがたが結論を引き出す前に反省されることを要求する。わたしもまた異常な事実を知っている。そしてその事実が本当であることを、わたしは保証する。というのはそれをわたしに話したのはたいへん聡明な婦人で、彼女のことばはわたしが絶対に信頼できるものだからだ。この婦人の夫は士官だった。かれはある戦闘で死んだ。ところがちょうど夫が倒れたときに、妻はその光景のまぼろしを見た。それはあらゆる点が現実に合致する正確なまぼろしだった。あなたがたはおそらくそこから、その妻自身が結論したのと同じように、透視、精神感応などがあったと結論なさるだろう。その場合ただ一つのことが忘れられている。すなわち、多くの妻は自分の夫が全く元気であるのに、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるということだ。正しいまぼろしだった場合だけが注意されて、他の場合のことは考慮されない。表を作って見たら、その一致が偶然のなせる業であることがわかるだろう」(同前)
 すなわち、その医学者は、夫の戦死にまつわる婦人の体験を、「異常」であり、「偶然の一致」であるとして、彼の学問的常識の外へ排除してしまっているわけです。
 そこに、ベルクソンは批判の刃を向けます。その医学者は「具体的なもの」に目をつぶってしまっている、と。すなわち、「かれは具体的な生きた光景の叙述――定まったときに定まった場所でこれこれの兵にかこまれてその士官が倒れたという光景の叙述――を、『その婦人のまぼろしは真実であって、誤りではなかった』という乾いた抽象的なことばにおきかえました」(同前)と。その結果「具体的なもの」は、抽象的な、確率論的なものにとってかわられてしまう。
 しかし、いかに確率的に低かろうと、夫が戦死したのと同じ光景を、妻が幻の中に、同じ時刻に見たという事実は否定のしようがありません。たとえば、画家が想像力を駆使してある戦闘場面を描く場合、まったく見たこともないシーンをそのまま再現しうるなどということは考えられません。
 この夫人は、画家と同じ立場に立っているわけです。にもかかわらず、彼女の想像力の世界に、現実の夫の死と同じ光景が再現されたとすれば、「どうしても彼女がその場面を知覚したこと、あるいはその場面を知覚した意識と彼女との間につながりがあったことが必要」(同前)になると言うのです。
 私は、ベルクソンの考え方は正しいと思います。意識の奥に広がりゆく、時間的空間的な無意識層の広大なる世界を考えれば、その夫人のような体験があっても、決して不思議ではないからです。それを「異常」や「迷信」として、一方的に退けてしまうことは、かえって、現代人の精神世界の貧困さを証拠立ててしまうでしょう。それでは、あなたがロシアやキルギスの神話的伝説に寄せて紹介されたような、瑞々しい感性、コスモス感覚は摩滅していくばかりです。
 もとより私は、ひところのオカルト(神秘的なこと、超自然的なこと)・ブームのような現象を、そのまま認めるつもりは毛頭ありませんが……。

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