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日蓮大聖人・池田大作

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環境破壊と依正不二の哲理  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 ゴルバチョフ大統領(当時)は、国連での演説で環境保護対策を強調され、また、あなたも作品の中で、環境破壊の問題を鋭く告発されておりました。ことに『処刑台』に描かれた、州当局の肉の生産計画が思うにまかせぬ状況になるや、科学技術を駆使して大がかりなサイガク狩りを断行するくだりは、勝手気ままな人間の傲慢さに対する、怒りと哀切の告発として、鮮烈に私の脳裏に焼き付いております。
 創価学会の牧口常三郎初代会長は、偉大なる教育思想家であり、著名な地理学者でもありましたが、著作に『人生地理学』という書があります。それは、自然と人間との一体性に着目し、自然が人間の精神、人生におよぼす影響について論及したもので、独創的な優れた地理学研究として、識者の間では高く評価されております。
 そこでは、自然と精神の形成について論を進め、たとえば、人間は植物と接触することによって、美情を養うことができるし、殺気をしずめて、豊潤な心情を培うことができる。また、動物や、山や川などの自然との交渉を通じて、美に感動する心や、親愛、勇敢さなどの高尚な心を啓発していくとも述べています。さらに人間は、大自然の妙なる営みにいだかれて、芸術的心情や真理への情熱を燃やし、“心の眼”を開き、信仰心を育てゆくものであるとも語っております。
 考えてみれば、自然は、生態系という壮大な生命のリングを構成しており、人間もその中の一つの生物にすぎません。しかも、その生命のリングは精巧にして複雑微妙な中に、見事な調和を保っております。
 ところが、科学という巨大な武器を持った人間は、人間こそが自然の支配者であると錯覚し、みずからの手で、この生命のリングを破壊し始めました。それは天に向かって唾するに等しく、かえってみずからの生存の危機を招く結果となったわけです。
 環境破壊の深刻さは、それが一部の先進国や一地域の問題にとどまらず、地球規模に波及し、事態が進行していくことにあり、また、ひとたび破壊された自然は、決して短日月のうちには復元されないことにありましょう。
 それだけに、地球レベルでの環境保護対策が緊急の課題であり、ゆえに私は、人類が生き延びるための方策を、各国の英知を結集して研究し討議し、具体的な解決策を見いだしていく場として「環境国連」ともいうべきものを創設する提案をしてまいりました。
2  ところで、この環境破壊の問題を考える上で大切なことは、たんに、当面する環境の破壊、汚染を防ぐことだけに終始するのではなく、未来にふたたび同じ過ちを繰り返さないために、人間のいかなる考えが、今日の結果をもたらしたのかを解明していくことであると思います。
 私は、環境・自然破壊を生んだ近代文明の発達の背後には、自然は征服されるものであり、いかに破壊されてもふたたび修復されるものであろうという安易な楽観論があり、さらに、万物の霊長たる人間こそ、宇宙の一切に君臨すべき支配者であるとの、人間中心主義があったことを指摘したいと思います。
 こうした考え方の根本に、キリスト教的人間観、自然観があることはいうまでもありませんが、それとは対照的に、東洋的発想は、人間が自然といかに調和し共存していくかとの志向を基調としてきました。そして、この東洋の調和の発想の淵源の一つは、仏法に発していると言えます。
 仏法では「依正不二」といって、「依報」すなわち環境世界と、「正報」すなわち生命活動を営む主体である自身とは、分離することのできない一体不二の関係にあると説いています。それは、いわば生態系の概念をも内包した環境・自然との共和と調和の哲理にほかなりません。さらにこの「依正不二」の原理は、主体である自己自身の内なる一念の変革が、全自然環境に連動していくことを教えています。
 環境・自然破壊をなしてきたものは、人間中心主義の考えですが、その根源には、人間の限りない欲望があります。ヨーロッパの近代文明が「欲望と意志の大きさ」(P・ヴァレリー)を旗印に、空前の富を生みだしてきたという側面は当然、評価されるべきです。
 しかし、その反面の事実、つまり、人間の内なる心の世界が、欲望というマグマの噴出によって破壊され、さらに、それが外なる環境という世界に噴き出していった結果が、環境・自然破壊であったという冷厳な事実に直面せざるをえないのが、現代文明の現実です。その最も極端な例は核戦争でありましょう。
 したがって、環境の保護といっても、欲望に翻弄される自身の心を律し、内なる生命の環境を整えることが最重要であり、人間の一念の変革こそ、何にもまして最大の課題であると思います。ゲーテの格言に「おまえの内部をさがせ、すると、おまえはすべてを見出すことができる」(前掲「ゲーテ格言集」)とありますが、まさに、人間の心にこそ、環境を決していくすべてがあります。
 こうした仏法の発想を根底にし、人間自身の生命の変革がなされていくならば、これまで支配、征服という一方通行であった人間と自然の回路は、調和と共存という相互交信の回路となり、環境・自然破壊を防ぐことはもとより、豊かな感受性に満ちた文化と精神を創り出すことも可能であると思いますが、ご意見をお聞かせ願えればと思います。
 サイガク
 サイガ。オオハナカモシカ。
3  アイトマートフ 複雑なテーマ展開になりましたが、その背後には、またもや世界的規模の「存在」という問題がそそり立っています。それは、乱暴な言い方をすれば、地球という「物体」は、人類という、あらゆる生物の中で最も大食いで、最も有害な種の「消費」に耐えうるのだろうか、それとも、人間的生活様式の完全な破産と、全地球的規模の大惨事の中での破滅が迫っているのだろうか、という問題です。
 私は、トルキスタンのアラル海が塩を含む灰色の砂漠に変わってしまったことの目撃者です。この海は私の幼年時代の海でした。初めて見たのは、一九三五年の四月で、七歳の時です。家族とともに汽車で、モスクワの、当時学校へ通っていた父のもとへ行く途中、アラル海のほとりを通ったのです。
 初めて見るアラル海がどんなに素晴らしい景色であったかは、今も忘れられません。海は線路のすぐそばで水音を立てていました。それは大草原そのものと同じように果てしないものでしたが、活気があって、帆かけ舟や小さな汽船が岸から遠く離れたところを行き来していました。駅では乗客に金色をした燻製の魚を束ねて売っていました。
 その後も、青年時代にも、大人になってからも、私は何回もアラル海のほとりを通りましたが、それは私にとっていつも感動的な出来事でした。果てしなく広がる乾いた大草原の中の大いなる海、それはまさに大自然の奇跡です。その当時の印象を私は最近『チンギス・ハンの白い雲』という中編の中で、次のように再現しました。
 「夕暮れが近づいていた。雪におおわれた低地を帯状の林に囲まれたシルダリア流れ《天山山脈に発しアラル海に注ぐソ連領中央アジアの大河》がゆるやかに弧を描きながら輝き、まもなく、すでに夕陽を浴びて草原のかなたにアラル海《中央アジアのカザフ共和国内の塩水湖》が見えてきた。初めは葦の茂みや、遠くに見える清らかな水の一部や、小さな島によって、そこに海のあることが推測できたが、まもなく、鉄道線路のすぐそばの湿った砂浜に打ち寄せる波が見えた。雪と、砂浜と、岸辺の石ころと、風に波立つ青い海と、石だらけの半島にたむろする茶色のラクダの群れを、一瞬にして一度に眺めるのはすばらしいことであった。しかも頭上には白い千切れ雲の浮かぶ高い空が広がっていた」(飯田規和・亀山郁夫訳、潮出版社)
 私の得た情報によりますと、かつて宇宙飛行計画が準備され始めたばかりのころ、事故による宇宙飛行士の緊急脱出の地点としてアラル海への着水が予定されていました。緊急脱出の場所が現在のアラル海だったら、どんなに恐ろしいことになるかは容易に想像できます。それは木一本ない裸の荒野へ放り出されるのと同じです。衝撃を和らげる深い水など、もはやその面影もありません。
 当然ながら疑問が生まれます。アラル海に何が起こったのでしょう? アラル海はどこへ消えてしまったのでしょう? どうして海の舟は、かつて海であった所の干あがった底にとり残されてしまったのでしょう? まるで砂漠が砂丘を吹き寄せながら、舟をつかまえてしまったかのようです。これはいったいどういうことなのでしょう? アラル海のこの惨事は今後どのような結果を招くのでしょう?
 この不幸は遠い昔から始まっていました。シルダリア、アムダリアという中央アジアの二つの大河は、多数のダムや貯水池で完全にせき止められ、世界最大の綿花栽培農園――数百万へクタールの綿花という単一作物の畑――の潅漑に回されていました。自然と人間の労働とを無慈悲に利用した金もうけの度はずれの渇望が、結果として、この地方を不毛にし、アムダリアとシルダリアの流入によってそれまで数千年存続していた大きな海全体を枯渇させてしまったのです。
 夏には空と太陽を遮る干あがった海底から吹き上げる塩の嵐、伝染病、いっこうに低下しない中央アジア住民の幼児の死亡率、文化と伝統の破壊、飢餓と貧困、――それがユートピア的目的の名においての略奪的人間活動の結果なのです。
 しかし、アラル海の挽歌は、地球の歴史の中の一つのエピソードにすぎません。その種の人間の手による悪は、この地上にいったいいくつあることでしょう!……。

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