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言葉の「明示性」と「含意性」  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 プラトンの「対話編」にも登場する古代ギリシャの哲学者クラテュロスは、一風変わった人物であったようです。
 “万物流転”を唱えたヘラクレイトスの徒であった彼は、すべての事物は絶えず流転しているので、言葉による真の認識はありえないとして、言語不信のおもむくところ、何事も言葉で語らず、ただ指を動かすだけであった、といいます。言葉に対する懐疑を徹底させていくと、たしかに、そこまで行き着かざるをえないという側面もあります。
 ところで、言葉に対する懐疑ということは、大乗仏教に一貫して流れている考え方です。その点バイブルの「はじめにロゴスありき……ロゴスは神なりき」に始まる、ヨーロッパ的思考の基調となるロゴス中心主義とは、きわめて対照的です。
 その代表的な論者が、前にもふれた(=第三章、「民衆の大地に根差して」の項)のですが、インドで活躍した龍樹です。龍樹もまた、クラテュロスと同じく、言葉の虚構性に対して、鋭い批判の矢を放った人でした。彼の主著『中論』の冒頭には、次のようにあります。
 「生じもせず、滅しもせず、常でもなく、断絶でもなく、一でもなく、異なるものでもなく、来るものでもなく、去るものでもない、この因縁をよく説き、説の戯論を滅する。その仏を私は心から礼拝する。諸説の中、第一であると」(『大正新脩大蔵経 第三十巻』)
 この冒頭に、八つの否定語が出ているように、実在は言葉では把握されないということを、八つの否定語で象徴しているわけです。ヘラクレイトスの“万物流転”ではありませんが、いっときとして同じ状態にとどまっていない事象の流れ――仏法ではそれを“無常”と言います――を、言葉によって固定化することの迷妄、危険性を、龍樹は鋭く突いたのです。
 もとより、古来、多くの哲人が指摘してきたように、言葉をもつということは、人間の最大の条件と言えます。また、言葉の虚構性を暴くといっても、その作業自体、言葉をもってするしかないという、宿命的パラドックスを、心得ておかなければならないでしょう。もし、言葉をもつことさえ否定すれば、我々はクラテュロスの隘路に落ち込むしかないはずです。
 しかし、というよりも、そうであるからこそ――つまり、言葉の問題がかくも人間にとって本然的であるからこそ、なおのこと、言葉の虚構性に敏感でなければならないと私は思うのです。
 私が、なぜこのようなことを申し上げるかというと、言葉には“明示性”と前にも強調したとおり(=第五章、「ロシア文学の伝統と特徴」の項)“含意性”という二つの側面があるからです。この“含意性”の深みに着目しないと、“明示性”の主たる働きである言葉による意思伝達の機能さえも、支障をきたしてしまうと思うのです。さまざまな文化摩擦のほとんどは、そこから生じていると言ってよいでしょう。
 この“含意性”の広大かつ豊饒なる内面世界への旅は、ジャック・デリダなどフランスの気鋭の哲学者が中心になって模索しているように、行き詰まり、疲弊した近代文明およびその中核をなすロゴス中心主義に、もう一つの道を示すことができると思うのですが、いかがでしょうか。
 クラテュロス
 前五世紀ころ。プラトンの師の一人とされる。
 ヘラクレイトス
 前六世紀―前五世紀。古代ギリシャの哲学者。万物の根源は火であるとした。
 ジャック・デリダ
 一九三〇年―。ヨーロッパに伝統的な思惟であるロゴス中心主義を批判。
2  アイトマートフ 私はその特殊な哲学分野の専門家ではありません。しかし、私の個人的な考えを述べてみようと思います。
 キルギス人は、言葉は「心」の鳥である、と言います。言葉は人間の世襲の財産であって、それは各人に終身的な個人的遺産として渡されるものである、と考えられます。しかし、遺産ですから、大きいものも小さいものもあり、豊かな資本であることも、乏しい資本であることもあります。
 言語の資本をいかに増大させ、完全なものにするかは、個人の社会史的、文化的状況によりますが、個人および集団の志向も少なからざる役割を演じます。
 私は、言語の「含意性」なり「明示性」なりの相互関係、その転換や変形について大部分の人々が日常的に考えているとは思いません。
 しかし、私はここで遊牧生活での比喩を使って話してみようと思います。言葉は「鞍をつけているもの」、つまり、真の意味を担っているもの、もあれば、「鞍をつけていないもの」、つまり、内容がなく、あるいは空っぽで、時には反対の意味をもっているようなもの、もあります。しかし、いずれにしても、言葉なしで世界を認識することは、たとえクラテュロスがやろうとしたように、ゼスチュアを使ったところで、ナンセンスです。
 私たちは言葉を使って生き、言葉の中で生きています。しかし、その反面、「語られた言葉は嘘である」とも言います。
 これは矛盾ではないでしょうか? 私たちの内部にあって、表現されないうちは汚れを知らず、真実のものであった言葉に表現されたら、何が起こるのでしょうか?
 しかし、いったん言葉を口にすると、私たちはいやおうなしに、これは違う、あれほど明瞭なもの、確かなものとして思い浮かんでいた真実の百分の一もこれは表現してもいなければ、伝えてもいない、と突然感じさせられます。
 私たちの善良な意図に反するこの「嘘」はどこから、どうして出てくるのでしょう? こうなったら、誠実で、真実の、心を打ち明けての交際など原則的に可能なのでしょうか? それとも私たちは理解し合えないことを運命づけられているのでしょうか?
3  意思の疎通(コミュニケーション)にはコード(符号)が必要です。学者たちがまず第一に用語について合意に達しようとするのはもっともなことです。しかし、たとえば、学者ではなくて普通の人が合意に達するにはどうしたら良いでしょう? その場合は、芸術が仲立ちになりうるとは思いませんか?
 たとえばの話ですが、話し相手同士が、等しくドストエフスキー、芥川龍之介、シェークスピアを好きだとしたら、どんな問題についても、同じ土俵の上で話をすることができると思います。
 この対談は永遠性を前におき、神秘の宇宙を背景にして行われていますが、この宇宙の姿を私たちが洞察し、鋭く感ずることができるのは、まず第一にそれが言葉による表現を得て、理解可能となり、明瞭なものとなっているからです。
 天才たちに扉を開いて見せる現実は生き、呼吸し、流れ、変化しています。そこで思わず考えてしまいます――世界の美しい風景や迷路を、一瞬たりとも停止することのない事象の流れを、描き出すことのできる言葉とはいったい何なのか、その魔力はいったいどこにあるのだろうか、と。
 『一世紀より長い一日』を書きながら、私は、読者を小説の中へ引き入れたい、自分がそうであるように物語の真っただ中へ引き入れたいという何とも説明しがたい気分を味わっていました。いってみれば、私の言葉を私自身の誠意と同等のものとして評価してほしいものだと思いつづけてきました。そこで十世紀アルメニアの大詩人のグリゴル・ナレカツィの次の文句を助っ人に頼んだわけです。
 「この本はわが身の代わりであり、この言葉はわが魂の代わりである……」
 現在生きている私たちの中で、いったいだれがこのように言う道徳的権利をもっているでしょうか? だれもいないとは言いますまい。さもないと私たちは一文の値打ちもなくなってしまいます。しかし、詩人なり思想家なりが自分の書く言葉は最高だとみなす道徳的権利は、何によって正当化されるのでしょうか?
 精神生活の純粋さによってです。そのことによってみて、ナレカツィがあえて言ったように、「心の奥底から出て神に向かう言葉」を口にすることができます。神の前に立って、神がじきじきに自分の言葉を聞いてくれるかもしれないと想像することは、考えるだけで恐ろしいことです。
 ところが、ナレカツィは自分の最も重いと思われる罪の懺悔をする対象として神を選びました。その罪を許す責任をみずからに引き受けることができるような人間は存在しえなかったからです。

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