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日蓮大聖人・池田大作

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作品に見る民衆像  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 故郷のキルギスをモデルとしておられるのでしょうか、村落共同体とそこに生きる人々の描写も、作品の重要なポイントになっていると思います。私はロシア文学に登場する民衆像に、苦しい生活や因習の中に厳しい手かせ足かせを引きずりながらも、なおかつ明るさと朗らかさを失うことがないという、なんとも不屈な、おおらかさとしたたかさとを以前から感じております。
 ドストエフスキーは『作家の日記』の中で、彼が幼年時代に強く印象に刻んだ“農民マレイ”にまつわる有名なエピソードを記しております。
 それは、少年の彼が狼の影におびえてマレイという農民に助けを求めると、「どうだい、こんなにびくついて、やれやれ」(『ドストエフスキー全集 第十二巻』小沼文彦訳、筑摩書房)などと優しく声をかけ、慰め、少年がその場を立ち去る時には、いつまでも姿を見送って、なおも残る不安をやわらげてくれた、というエピソードです。
 ドストエフスキーは、貧しくも質朴な農民の心が、「どれほど深い、啓発された人間らしい感情」と「女性的なやさしさと言ってもいいようなもの」(同前)に満たされていることに驚き、そして人間のある種の可能性と言ってもいい性分とを看取してそれを語っておりますが、ここに表れた一個の庶民の純朴さは、そのままロシアの大地に生きる民衆像として、私の胸に刻まれております。
 十九世紀の“民衆の中へ(ヴ・ナロード)”運動以来、ロシアの知識人ほど民衆を意識しつづけたものはなく、ロシア文学ほど魅力ある幾多の民衆像をもつ文学も稀であります。あなたはご自分について、「どちらかといえば、ゴーリキーのような最下層から出てきた」と述べておられますが、作品中にも、自分を育んでくれた地に根差した、“民衆像”が反映されているのではないでしょうか。
 そこで、あなたの作品に表現された民衆の原像とも言うべきものはどのようなものでしょうか。さらに敷衍して、あなたは民衆のつねに変わらぬ性分、本質とはどういうものだと考えておられますか。
2  アイトマートフ たしかに、民衆という定数(コンスタント)は大きなものです。人々は何かとくに重要なことを言わなければならないときには、いつもこの概念に目を向けます。民衆は伝統的に真理と正義の担い手とみなされています。しかし、この点に関しての悪用も少なくありません。民衆の名において実際に誓ったり、裁判を行ったり、警告したり、憤慨したり、感謝したりしています。
 しかし、同時に、だれもが知っていることですが、民衆の中にもさまざまな人間がいます。運命に感謝したくなるような人々もいれば、その野蛮さ、残酷さのために、地の果てにまで逃げだしたくなるような人々もいます。
 文学において、芸術的描写の対象としての民衆は、最も主要なテーマであり、しかもだいたいにおいて、心に安らぎをもたらすテーマだということができます。そのさい、それぞれの作家にはその作家なりの経験と信念があります。
3  池田先生、あなたは民衆像について話されながら、ドストエフスキーの幼年時代のマレイという農民との出会いについてのエピソードを思い出されました。それとの関連で、ちょうど良い機会なので、私自身の少年時代の一つの忘れがたい出来事の思い出を、お話ししようと思います。
 できるだけ詳しく話そうと思います。あの苦しかった戦争時代に、私がこともあろうに殺人を犯そうとしたというようなことが、どうして起こりえたかを知ってもらうためです。
 その冬、一九四三年の二月の初めに、私たちの家族は大きな不幸に見舞われました。ここでは、ひもじさだとか、貧しさだとか、戦争がどうのこうのということは言いません。それはすべてわかりきったことです。ただ、以上のことに加えて、私たちは追われる者たちの家族であり、スターリン体制によって弾圧された「人民の敵」の子どもだったということを考慮に入れておく必要があります。
 病人である私たちの母のその病気――生涯つづいた慢性関節炎――の原因は、おそらく父親が銃殺された一九三七年のショックだったろうと思いますが、その母は四人の子どもをかかえていました。私が最年長で十五歳、弟と二人の妹は小学校の低学年の児童でした。
 戦争が始まると、母は私たちを飢えから守るために、地区の町でのそれまでの経理の仕事をやめて、ある小さなコルホーズの会計係に就職しました。私たちが移り住んだ村は、今でもジーデ村と呼ばれています。私たちは持ち主のいない、半ば崩れかかった土小屋に身を寄せました。家畜用の小屋がないために、私たちは、私たちの養い手として乳を飲ませてくれる牛――その牛の名前がズフラであったことは、今でも覚えています。それは戦争直前に親戚がくれたもので、もらった時はまだ小さな子牛でした――を、その冬はコルホーズ議長の許可を得て、コルホーズの牛舎で飼っていました。
 このようなことをお話しするのは、その牛が私たちにとって命にかかわるほど重要だったということを説明するためです。
 その牛なしには生き延びることのできないことは、私たち子どもにもわかっていました。私たちは一日中牛舎で過ごし、牛に餌をやり、水を飲ませ、隣近所を回ってはさまざまな食べ物の残りかすを集め、それをかいば桶へ運び、そのようにして私たちは牛にお産の準備をさせていました。
 家では話といえば、早く春が来ないかなあ、そうすればしぼりたての牛乳が飲める、コテージチーズやサワークリームが食べられる、というようなことばかりでした。

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