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日蓮大聖人・池田大作

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運命をめぐる、自覚と自省の力  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 『一世紀より長い一日』の中で、恐ろしい拷問によって記憶を奪われてしまう奴隷マンクルトの伝説は、たいへんに示唆的でした。
 たまたま、マンクルトにされた息子を発見した母親ナイマン・アナの血を吐くような叫び――「土地を奪うだけならまだ許せる。財産を奪ってもいい。命すら奪ってもかまわない(中略)だけど、人の記憶を奪うなどということを一体誰が考え出し、一体どこの誰にそんな大それたことができるのでしょう!?」(前掲書)――には、深い真実が宿っています。幾多の事例が物語っているように、たとえ命を奪ったところで、それによって、人間が人間であることの尊さや誇りまで奪い取ることはできない。しかし、記憶を奪うということは、人間の尊厳性を根こそぎ否定し去ることであり、もはやそれは生ける屍でしかありません。
 私は、読み進んでいて、プラトンの『国家』の末尾に出てくるエルの物語を想起いたしました。ご存じのように、戦死したはずの勇士エルが、十日ほどして生き返り、黄泉の国の見聞を語るわけです。その最後のところで、魂はそれぞれ自分の運命を選びとることを許される。そして、「忘却の野」へ連れ立ってやって来るが、あまりの暑さのため、そこを流れている「忘却の河」の水を飲んでしまう。そのとたん、一切の記憶が失われ、誕生へと連れ去られていく――。したがって、だれも自分の運命を自分で選び取ったことに気づかないわけです。
 この寓話の意味するところは、自分の運命と四つに取り組み、なおかつ、その運命の支配者となっていくことが、いかに至難であるかということだと思います。
 それには、プラトンが「魂は不死なるものであり、ありとあらゆる悪をも善をも堪えうるものであることを信じるならば、われわれはつねに向上の道をはずれることなく、あらゆる努力をつくして正義と思慮とにいそしむようになるだろう」(『国家』藤沢令夫訳、『プラトン全集11』所収、岩波書店)と述べているような、強靭なる自覚と自省の力を必要とします。
 もし、そのような自覚と自省を欠いているとすれば、それは「忘却の河」の水を飲んだことに気づこうとしないことであり、無自覚、無反省のいきつく先は、かの無残な奴隷マンクルトと“五十歩百歩”とは言えないでしょうか。少なくとも、人間の尊厳性の“核”の部分を殺してしまう点で、彼もまた生ける屍同然であると言わざるをえないと思うのです。
2  アイトマートフ 悲しいことです。反省のできない人間は、ある批評家が『一世紀より長い一日』の登場人物の一人、サビジャンを評して言ったように、「自由意志にもとづくマンクルト」です。しかしそれはだれの耳に届いたでしょうか? 人間の耳に届くのは、耳障りでない事柄、自分を客観的な厳しい目で見なくてもすむような事柄です。
 残念なことに、私たちは簡単に、また喜んで他人を非難しますが、いったん、ことが自分にかかわるようになると、あわてて言い逃れや弁解を始めます。
 池田 おっしゃるとおりです。ここでは、「反省の能力」ではなくて、「反省への欲求」と言わなければいけませんね。そして、それは、人間の尊厳の構成要素だと思います。その人間とは「他人」の指示や目標や命令で生きることを絶対に承知しない人間です。
 アイトマートフ 残念なことに、多くの人は「他人の頭」で生きることは、まっとうな人生を生きることにはならないのだということを考えてみようともしません。
 もう一つの問題は、そういう人は内面の不完全さや、精神的不調和のいらだちを感じているだろうか、ということです。
 池田 そのとおりです。しかし、人間が自分のことを、存在の永遠の問題を、真剣に考えるようになるための、なんらかの条件は生まれてこなければなりません。
 アイトマートフ 私はアブル・カラム・アーザードの「一九一六年、私は逮捕されて初めて反省の機会をもった」という告白を聞いて本当に驚きました。
 もちろん、監獄が哲学的思索にとって最も良い場所だというわけではありませんが……。
 アブル・カラム・アーザード
 一八八八年―一九五八年。インドのイスラム教徒の政治家。ガンジーを支援し、インド独立時の文相。
 池田 しかし「監獄」で生きぬくことは、つまり、判断力を保存することは、そういう状況でのみ可能かもしれません。監獄なしにはすまないような運命を、つまり、そのような人生の道を選んだからには、そのための覚悟が必要です。
 ところが多くの人は、気楽に、運命などに思いを巡らすことなく、その運命を、彼らのために考えてくれる「専門家」にゆだねて、生きています。それがいちばん悲しいことです。
 アイトマートフ 私も社会的、哲学的問題としての運命に興味があります。
 つまり選択の権利……。
 自分のしていることがよくわからずに、自分の運命を他人の手にゆだねる人間がいるとは、考えただけで恐ろしいことです。あるいは、国家が、国民の幸福はどこにあるかを当の国民以上によく知っていると言いくるめて、国民の、つまり人間の、運命を左右する権利をもつことを法的に定めているのは、冒涜以外の何物でもないと思います。それは結局は人間を国家の奴隷に、農奴にしてしまうことです。
 池田 現在では、人間を「マンクルト」にすることはさほど容易でないと思います。そこには、あなたのおかげもあります。それが何を意味し、その結果はどうなるかを、あなたが警告なさったからです。

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