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日蓮大聖人・池田大作

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非暴力に関する私の一考察  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1        池 田 大 作
 近代日本の代表的作家の一人に、夏目漱石がいる。彼の代表作『行人』は、長野一郎という大学教授を主人公に、彼をめぐる人々の葛藤をとおして近代的知識人の自我の煩悶を描いたものだが、その終わりのほうに、一郎とごく普通の常識人である友人のHとが、連れ立って気分転換の旅に出るくだりがある。その途次での一つの出来事を、Hは手紙をとおして、一郎の弟・二郎に伝えている。
 ――ある日、神をめぐる論議となり、Hは自我への執着に苦しむ一郎に対し、神を信じ、より大きなものへ自己を投げ出すことによって、我執を脱することができるのではないか、と進言する。種々のやりとりがあったあげく、一郎は問いつめる。
 「『じゃ君は全く我を投げ出しているね』
 私『まあそうだ』
 『死のうが生きようが、神のほうでいいように取り計らってくれると思って安心しているね』
 私『まあそうだ』
 私はにいさんからこう詰め寄せられた時、だんだん危しくなって来るような気がしました。けれども前後の勢いが自分を支配している最中なので、またどうするわけにもゆきません。するとにいさんが突然手をあげて、私の横面をぴしゃりと打ちました。(中略)
 『何をするんだ』
 『それ見ろ』
 私にはこの『それ見ろ』がわからなかったのです。
 『乱暴じゃないか』と私が言いました。
 『それ見ろ。少しも神に信頼していないじゃないか。やっぱり怒るじゃないか。ちょっとした事で気分の平均を失うじゃないか。落ち付きが顛覆するじゃないか』」(岩波文庫)
2  おそらく、イエスの「右の頬を打つなら、左の頬をも向けよ」との言葉が想定されていたにちがいないこのくだりを、本稿のテーマに引き寄せて読めば、非暴力といった人類史的課題を前に、くどくどと口先だけの論議を費やすことは、もはや贅言というしかなく、ややもすると、針の先端でどれくらいの数の天使が踊れるか、といった空疎なテーマで甲論乙駁をつづけていた中世スコラ哲学の教義問答のように、果てしない言葉のやりとりにさえ堕しかねないであろう。論議のための論議でしかないそうしたやりとりなどは、たとえば、一郎の平手打ち一つで、たちまち色褪せ、雲散霧消してしまうのがおちである。
 したがって私は、暴力か非暴力かといった問題を、具体的な現実の場から切り離して、自己完結的な抽象的次元で論ずることは、ほとんど意味がないように思う。ある事態に直面した時、それに暴力をもって対応すべきか非暴力的に対応すべきかは、みずからの信条としてならともかく、これを抽象的に一般化して考えると、所詮はケース・バイ・ケースというしかなく、それでは、何も言わないに等しい。形式論理的につめていくと、矛盾、ジレンマ、二律背反といったアポリア(難問)が導き出されるだけであって、つまり、そういう形では答えの出ない類の問題なのである。このことを、身にしみて知っていたのが、戦争と暴力が空前の猛威をふるった二十世紀の歴史に、非暴力主義の輝かしい足跡を、鮮やかに刻印していった、マハトマ・ガンジーではなかろうか。
 ――一九二〇年代の終わりごろ、ガンジーの率いる国民会議派の党員が、選挙運動の最中、反対党の無頼漢から、唾を吐きかけられるなどの侮辱や暴力行為を受けた。そうした場合に、非暴力の論理にのっとっていかに対応すべきか、との問いかけに答え、ガンジーは厳しく言う。
 「非暴力主義者であるどの会議派党員も、それ以外のものにはなりえないがために非暴力主義者なのである。それゆえに、だれも非暴力の問題について、わたしや他の会議派党員に助言を求める必要のないことを、わたしは強く忠告しておく。だれもが自分自身の責任において行動し、自分の能力と信念の最善を尽くして会議派の信条を明らかにしなければならない。弱い者にかぎって、自分が臆病であるために、自分自身の名誉や配下の者の名誉を護ることができなくなったときに、会議派の信条とかわたしの助言を隠れみのにしてきたことは、わたしもしばしば指摘してきたところである」(『わたしの非暴力Ⅰ』森本達雄訳、みすず書房)と。
3  すなわち、ガンジーにとって非暴力主義とは、己が全存在――信念と良心のすべてを賭して、ある場合は死さえも賭して選び取った、それしか取りようのない選択であり行動なのである。のみならず、すべての非暴力主義者たるものはそう確信をもって生きなければならない。彼らはみな「それ以外のものにはなりえないがために非暴力主義者」となったのだから。その点を回避して、安易に他人の助言にすがろうとしたり、それを意識しなくてもその助言を利用したりすることは、非暴力主義者たることの放棄であり、心得違いも甚だしい。ガンジーは重ねていう。「非暴力は、意のままに脱いだり着たりする衣服のようなものではない。その座は心の中にあるのだ。そしてそれは、われわれの存在そのものの分かちがたい部分にならなければならない」(同前)と。
 行為の全一性は、つねに既知の理論や仮説を超えゆく豊かな未知の世界を内包しているものだ。非暴力という容易に一般化を許さぬ、人間的なあまりに人間的な行為のイメージ化は、したがって哲学的思惟や論理の抽象的次元には、なかなかなじみにくい。それに鮮やかな輪郭を与えるのは、何といっても人間の全体像を抽出する想像力の働きであり、そこでは、行為の全一性というものが、一種のハレーションを帯び、それこそのっぴきならぬ凝縮した姿をもって立ち現れてくるのである。文学的創造の中から、どちらかといえばネガティブ(否定的)に、どちらかといえばポジティブ(肯定的)に、それぞれ非暴力の問題をくっきりと浮かび上がらせている古典的造形を、二つほど例示してみよう。

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