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日蓮大聖人・池田大作

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「悲劇的なるもの」の恵み  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 次に、「悲劇的なるもの」について考えてみたいと思います。というのは、やはり『処刑台』や『一世紀より長い一日』などに顕著ですが、「善」と「悪」の相克を経て、最後は主人公の破滅など、悲劇的な結末をたどる作品が多いように感じるからです。
 ツヴァイクは、「だれか、かつて流罪をたたえる歌を、うたったものがいるだろうか? 嵐のなかで人間を高め、きびしく強制された孤独のうちにあって、疲れた魂の力をさらに新たな秩序のなかで集中させる、すなわち運命を創りだす力であるこの流罪を、うたったものがいるだろうか?(中略)自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。それというのも、奈落の底を知るものだけが生のすべてを認識するのであるから。つきはなされてみて初めて、人にはその全突進力があたえられるのだ」(『ジョゼフ・フーシェ』山下肇訳、潮文庫)と語っております。
 悲劇の生みだす効用とは、物事の破局や否定的な終焉が、運命というものの深淵を垣間見させ、その底知れぬ深さが、我々を日常性から脱出せしめること、それによって人間本来の在り方へと目覚めさせ、生への意欲をかりたてることにあるのではないでしょうか。その意味で悲劇には、人間の善性への可能性が究極的に予定され、信じられているということができるように思います。
 芸術作品にあっては当然のこと、実際の生活にあっても、悲劇的な死というものは、部分の死であり、それによって全体は生かされます。人間の身体が、新陳代謝が行われなければ腐ってしまうように、人類の歴史も「悲劇的なるもの」が配されていないならば、じつに無味乾燥なものとなってしまい、深化も活性化もありえなかったでしょう。
 死をこのように位置づければ、古代ギリシャのある祭司の言葉として伝えられる「死は禍事ではなく恵みである」という句も、決してゆえなきことではないと思います。型こそ違え、葬儀というものが、いかなる部族、民族にあっても、人生の最重要の儀礼として位置づけられているのも、そのことと無関係ではないでしょう。
 あなた自身も以前、「歴史の中で芸術的な才能、思索の推進力となってきたものは悲劇である」と言われていましたが、悲劇的なるものについてのお考えを、さらにうかがいたいと思うのですが……。
2  アイトマートフ 人それぞれの運命を前もって定めることができると仮定して、しかもその場合に、人間が悲しみや苦しみにあわなくてすむようにすべきかどうか、もしも私が尋ねられたとしたら、というのも、私たちの基本的な志向は、要するに、かげりのない幸福の追求ですし、また、人生には困難や不幸が永遠につきものであってみれば、それも当然のことなのですが、もし仮にそういうことになったとしたら、私は、キルギス人的な言い方をすれば、無駄な悲しみから、つまり、こういう表現が許されるならば、無理に味わわなくてすむような余計な苦しみから、つまり、交通事故だとか、傷害だとか、火事だとか、崖崩れといったような、外部からの、偶然的な、付随的な不幸からは守ってほしいと頼みます。しかし、人生の途上での魂の悲劇は人間から取り除いてしまうべきではないという立場は固執したいと思います。
 悲劇性は人間の内面世界の分母です。個人の特性は、人間が真理や公正さや正義を求めて進む中で、現実世界の否定的勢力の反作用と衝突して味わう悲劇的体験をとおして、明らかになります。
 悲劇は幸福の苦い道連れであることを忘れてはなりません。人間は悲劇的状況を克服する中で破滅したり、背筋をピンと伸ばしたりします。「出口のない」という観念は実生活と芸術ではかならずしも一致しません。ジュリエットの破滅は実生活の立場からすればどういうことになるでしょうか? それは絶望であり、出口のないことであり、心弱き者の自殺です。
 ジュリエットの死は芸術においてはどうでしょうか? 一見まったく同じことのように思えますが、シェークスピアの筆にかかれば、その「出口のないこと」は反対の作用をもつ強大な力を獲得します。
 その力は魂の力であり、不屈さと容赦なさであり、確信と非妥協性です。それは同時に愛と憎しみであり、挑戦と忠誠であり、最後に、自身の命を代償にしての人格の主張なのです。
 シェークスピアの悲劇は、その「出口のない」結末にもかかわらず、つまり主人公たちの死で終わるにもかかわらず、いうまでもなく、楽天的な作品です。それはその時代の悪を糾弾する高度な悲劇です。たしかに、「肯定的な」主人公たちは「否定的な」主人公たちと戦って敗北しますが、しかし、それと同時に、ロメオとジュリエットの物語は、自由な人間でありつづけることの権利の意味を評価し理解することを私たちに教えています。
 二人はその権利のために命を捧げました。そのことによって、ロメオとジュリエットは生きている者たちにとって美しいのであり、大いなる存在なのです。
3  池田 「悲劇は幸福の苦い道連れ」とは、言い得て妙であり、私の問題提起に対するこの上ない“正答”です。その言葉に敬意を表し、かつ相呼応して、私のいちばんのモットーを紹介させていただきましょう。
 それは「波浪は障害にあうごとに、その堅固の度を増す」というものです。障害や悲劇というものは、人間を鍛え、人生に深さと強さの彩りを加えていく――つまり「堅固」さを増していくために、不可欠のものと言えます。平穏無事で何一つ障害のない人生よりも、何があっても悠々と乗り越え、乗り越えるごとに輝きを増していく人生のほうが、どれほど尊いことか――。幸福とは、まぎれもなく戦う人の、究極は自分との戦いに帰着する容赦なき戦いを厭わぬ人の頭上にのみ輝く栄冠なのです。
 そして、優れた芸術は、その悲劇的な結末にもかかわらず、否、それゆえに、芸術固有の魂の浄化によって、人生を強く、深く生きるための糧を提供してきました。だからこそ、芸術史はギリシャ劇やシェークスピア劇に代表されるように、喜劇よりもむしろ悲劇をもって、その高い峰々となしてきたわけであります。
 人々が何百回、何千回と悲劇を読み、観劇してあくことを知らないのも、ちょうど適度の運動によって肉体がリフレッシュされるように、それによって魂の新陳代謝による浄化作用がなされてきたからにほかなりません。
 ところで、あなたの『白い汽船』は、少年の純な魂が、この世の悪と理不尽に対して、死をもって抗議し告発する悲劇を扱った佳作です。ちなみに、その悲劇性に対して、読者はどんな反応を示しましたか。

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