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日蓮大聖人・池田大作

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民話のもつ意義と普遍性  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 あなたの作品は、『白い汽船』を初めとして、日本では児童文学としても多くの読者をもっております。児童文学は、多感で純真な読者を対象とするだけに、平易でしかも質的に吟味されていなければならず、青少年や成人を対象として書かれる作品にもまして、メッセージ性が高いということは、私自身、いくつかの児童向けの創作に取り組む中で感じもし、留意もしている点です。
 平易で高い内容を備えた文学といえば、これもトルストイを例にとりますと、彼が晩年に著した『イワンのばか』などの民話が念頭に浮かびます。彼はその執筆の理由として「真の芸術は、人生のために何らかの効益を寄与するものでなければならぬ」「一般の民衆によく理解されるもの、すなわち世界的宇宙的に普遍なものでなければならぬ。そしてそのためには、形式・表現が明瞭で、単純で、簡潔でなければならぬ」(中村白葉訳、岩波文庫の解説)と語っております。民話は、彼のこうした芸術的信念の表れであったわけです。
 この独特の価値をもつ佳品についてロマン・ロランも、「近代芸術における独自な作品。芸術よりも高貴な作品」(『トルストイの生涯』蛯原徳夫訳、岩波文庫)とまで嘆賞しておりますが、トルストイが述べている「普遍的な内容と明確な形式」という作品の条件は、そのまま児童文学にもあてはまるものです。
 国民詩人プーシキンの精神形成に、幼いころに乳母アリーナ・ロジオーブナから聞き知ったロシアの民話や民謡が、あずかって力があった事例が示しているように、子どもや民衆に理解されるということは、想像をはるかに超える重要な意義を秘めていると思いますが、あなたはどう思われるでしょうか。
 また、あなたがとくに子どもたちに対して訴えようとされていることについて、うかがいたいと思います。
2  アイトマートフ 初めに申し上げておきますが、つい最近わが国の批評界で激しい論争が行われ、その中で、民話や伝説の応用は死に値する罪深い行為であるとか、社会主義リアリズムへの侵害であるとか、社会主義リアリズムの伝統の冒涜であるとかいう非難が作家たちに浴びせられました。その「冒涜者」の一人がかく言う私だというのです。腹立たしいことに、そういう「純文学」の擁護者たる批評家を熱烈に支持する読者がかなり多くいました。
 しかし、ここで問題にしているのは児童図書の世界なので、ここでは腹立たしさとは無縁な穏やかな結論が、本来的に気高い思想が述べられるものとお思いかもしれませんが、残念ながら、わがソビエト社会の現実には、支配体制が爪痕を残していないような分野は、私たちが問題の緊張を味わわなかったような分野は一つもありません。児童文学すらその例外ではありません。
3  池田 その原因は何だとお考えですか?
 アイトマートフ 一部の読者に見られるそのような紋切り型の感覚と、文学に対するそのような紋切り型の要求の復活は、とりわけ、彼らの趣味がひどく教訓的で道学者的な小説によって養われてきたこと、すなわち、主人公を、主人公の心理や行動を、控えめに言えば、生活の目的にかなっているかどうかという観点から、はっきり言えば、イデオロギー的な純潔さの観点から定型化し、規定しているような小説によって養われてきたことによって、説明できます。
 その種の月並みな文学は、ほとんどいつの時代をとっても、人類共通の文化の血液循環系とは無縁のものです。またそれは、力強く練り上げられた心理主義をもち、道徳的、精神的に高度な潜在能力をもって、真理の探究と、人間的存在の全き意味における人生の意味の探究に、深さと熱情を示した偉大な十九世紀ロシア文学とも、無縁なものです。
 現代の小説の中に、民話、伝説、いわゆる「東洋」風のオレオグラフや装飾主義等への集団的な――と彼らには映ったようです――熱中を発見して驚いた批評家の高潔な立腹は、まったく理解に苦しみます。
 「どうしたことだ?」と批評家は厳しく、険しく問います。「いったいそれはどこから来たのだろう? ははあ、現代文学に独特な神話創造への関心や憧れが見られるからには、つまり、答えはこうだ、すべての罪は、作家に真実の道を、リアリズムの道を踏みはずさせるフォークロア(民間伝承)にある」と。
 社会主義リアリズム
 一九三〇年代にソ連で提唱されたリアリズム。現実を社会主義イデオロギーにもとづく革命の発展にそって描き、また、社会主義イデオロギー実現をめざした。リアリズムは、現実をありのまま描き表現しようとする芸術上の態度。
 オレオグラフ
 油絵風石版印刷。十九世紀後半に普及。

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