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日蓮大聖人・池田大作

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宗教における「不変」と「可変」  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 あなたは『処刑台』の中で、「『神のカテゴリーは人類の歴史的発展に従って、時代につれて発展する』という独自の理念にとりつかれた異端者アヴジイ・カリストラートフは、自分が出した結論の本質を人々の前に明らかにするチャンスに早晩恵まれるものと期待していた。なぜなら彼は、脱工業社会の時代が来れば、人間の力はきわめて危機的な局面に達し、全体として、人々は自から自分と神の関係を知ろうとする方向へ向かうであろうと考えていたからである」(前掲書)というテーマを示しておられます。
 ここには脱工業化社会の中で、人々に宗教的なるものへの回心が起こりうるであろうという予測とともに、「神のカテゴリー」も、自分にとって神とは何か、という不断の問いかけにさらされざるをえないことが示されています。
 宗教が人間に裨益するものであるかぎり、当然のことであり、その点に鈍感であるならば、その宗教は硬直化し、時代の古層に埋没する化石となってしまうでありましょう。
 私は、宗教には「不変」部分と「可変」部分があると思っております。「不変」部分とは、その宗教の核心中の核心をなすものであり、宗教が永遠性にかかわるものであるかぎり、そうした根本部分は存在します。
 しかし、その他の大部分は、時代の進展とともに変化してよい部分であり、生きた宗教であればあるほど、時流や人心に敏感に反応していかなければならないでしょう。
 あなたは、無神論を国是とする社会に生き、なおかつ神の問題を考えておられるだけに、宗教と時代の流れという問題を、より切実に考えておられると思いますが、この点についてのご意見をお聞かせください。
2  アイトマートフ あなたがふれられた問題は、精神的な存在としての人間について論ずる場合に、避けて通ることのできない問題です。とくに重要なことは、知性が危機にある現代において、そのことについて考えることです。
 私たちの経験にもとづいて話をします。つい最近まで私たちの社会のすべての否定的現象は、一般に、過去の遺物という概念で説明されてきました。現在ではそれは滑稽なことです。
 しかし、当時は大まじめでした――そこにイデオロギーの「力」があります――。単純で、都合が良かったからです。そのような過去の遺物にまず第一に数え入れられていたものが宗教でした。俗流唯物論の石臼は、支配的イデオロギーの独占体制を利用して、いわゆる唯物論的意識の領域に入らないすべてのものを粉砕し、破壊し尽くそうとしてきました。
 すべての宗教が根絶の危機にさらされ、あらゆる信仰の寺院や神殿が破壊されてきました。万人にとって単一の階級的世界観が植え付けられてきました。それは周知の事実です。
 その結果が精神の衰えであり、さまざまな民族や世代の人々の道徳的退廃です。悪と暴力が日常の生活様式になってしまいました。それもまた周知の事実です。
 しかし私としては、その点に関して一つの考えを述べてみたいのです。それは次のようなものです。
 つまり、私には宗教および一般に反体制思想への迫害の過程で、啓蒙時代以前に独占的に支配していた、中世的原理主義と(フアンダメンタリズム)は異なった、ある種の社会主義的原理主義が形成されたように思います。イランの原理主義現象は、ホメイニ体制によって生みだされたものです。
 ここで、池田先生、私はあなたのご意見をおうかがいしたいと思います。一定の社会における大衆の気分としての原理主義の本質について、どうお考えですか。しかも無神論的原理主義は宗教的原理主義と紙一重です。非寛容、暴力、大衆動員はあらゆる種類の原理主義に共通する特徴です。
 さらに、このことに関連して私がとりわけ心配しているのは、テロ行為が広がっていることであり、それを促進する政治的、宗教的要因が存在することです。
 考えるだけでも恐ろしいことですが、もしもテロリストのグループが突然、どこかの原子力発電所を占拠したらどうなるでしょう? そのような脅威にどう対処したらいいのでしょうか?
 脱工業社会
 物質的原料とエネルギーを基礎にしている工業に代わって、情報、知識、サービスなどを商品とする産業が中心となる社会。
 原理主義(フアンダメンタリズム)
 聖書を記述どおりに信ずる主義。もともと一九二〇年代以降にアメリカを中心にして広がった、進化論を認めない運動をいう。
 ホメイニ
 一九〇二年―八九年。イスラム教シーア派の指導者。イラン革命を指導。
3  池田 かつてアメリカでマッカーシズムの嵐が吹き荒れたことがありました。リベラルな思想の持ち主を「反共」の名のもとに、次々と罪人に仕立て上げていきました。この場合は、「反共」を原理として、少しでもそれに反する要素があれば、容赦なく攻撃していったものです。
 しかし、その嵐が去ってしまえば、あれはいったい何だったのかと、だれもがいぶかしく思うほどで、まるで憑きものが落ちたようになりました。
 マッカーシズムを支えたものは、まさに「盲目的熱狂」という以外にありません。原理主義とは、一言で言えば、一を是として他を非とする、多様な価値意識の否定であり、それを盲目的熱狂をもって遂行していくことにほかなりません。あなたの主催したイシククリ・フォーラムの一員であったA・トフラーも、『パワー・シフト』の中で、社会の健全な発展を妨げるであろう最大の要因の一つに、この原理主義を挙げておりました。
 T・S・エリオットは「キリスト教社会の理念」という論文の中で、世俗的な改革家や革命家のおちいりやすい陥穽を挙げています。
 これは直接、原理主義について言った言葉ではありませんが、原理主義の悪を適切に言い当てていると思われますので、エリオットの洞察を借りて、私なりに原理主義の本質をここから抽出してみれば、①悪をもっぱら外に見て内に見ない、②個の尊厳という、あらゆる高等宗教が志向したものを、それこそ「原理的」に認めない、ということになるでしょう。
 自分の外部にある悪――エリオットはこの悪は「非個性的」であると表現していますが、これはまた“非人格的”“非内面的”と言い換えてもいいでしょう。あなたのおっしゃるように、原理主義が非寛容で暴力的であるのは、こうした特徴に由来すると思われます。したがって、社会が原理主義の悪を免れるには、一に、悪を自己の内にも見いだすこと、そして、個の尊厳の思想を確立することが要請されなければなりません。
 仏法では、人間生命を十界互具の当体と説きます。その意味するところを単純化して言えば〈善の生命〉と〈悪の生命〉が一個の人間生命の中に備わっており、どちらが強いかによって、人間は限りなく高貴にもなれば、逆に限りなく愚劣にもなる可能性をはらんでいることを明かしたものです。
 私の提唱する人間革命は〈悪の生命〉を冥伏させて〈善の生命〉の活性化を成し遂げることです。先のエリオットの論文にも「俗世界と同時に自分自身をも回心させる必要があると判るときに、その人は宗教的な見解に近づきつつあるのです」(「キリスト教社会の理念」中橋一夫訳、『エリオット全集5』所収、中央公論社)とありますが、これも私の見解と軌を一にするものと言えましょう。
 また、人間が〈善の生命〉の活性化によって限りなく高貴になれる存在である、ということは、個の尊厳の思想に明確な基盤を与えるものとなるでしょう。
 ともあれ、内なる悪を見据え、その克服をめざす人間革命、自己変革の運動が、一切の根幹に据えられなければ、どんな運動も、先鋭化すればするほど、原理主義の悪をかかえこまざるをえないでしょう。
 マッカーシズム
 一九五〇年から五四年にかけて、上院議員のマッカーシーがおし進めた反共産主義活動。

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