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日蓮大聖人・池田大作

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分断から調和への流れを  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 「新思考」とは主として国際関係において使われているようですが、もう少し異なったアプローチも必要ではないでしょうか。と申しますのは、一九八八年の秋、来日されたあなたと会談する機会をもちましたが、あなたがソ連に帰国されるにさいして、私に宛てられた伝言を思い出したからです。その伝言の中で、あなたはこう言われていました。
 「これからは、新しい世界宗教、または新しい宗教的文化的教えが必要となる。これまで人類の長い歴史の中で、人間はその精神、心をバラバラに分断されてしまった。それを一つの調和へ糾合しなければならない。それを今しないと、人類は滅んでしまう……。私は日本に来るまでは、ヨーロッパ精神にもとづいた思想をもっていたが、今回、東洋の思想に教えられた。それは、創価学会によってである。この調和への努力は、今の世代で完成しなければ、次の世代が受け継いでくれるにちがいない」
 創価学会に対してこのように過分な評価をいただき、恐縮する思いですが、それはそれとして、あなたがここで言われた“これからの時代は分断ではなく調和への糾合が必要である”ということは、まさにそのとおりであると申し上げたいのです。
 現代は分断の時代であると言っても過言ではないと思います。一人の人間においても思想と行動の乖離、理性と感性のアンバランス、人間と人間においても世代の断絶、文明社会の特徴とされる人間関係の断絶、国家と国家の間における反目・抗争、人間と自然の断絶等々、あらゆる局面において分断の現象があふれています。
 私は、悪の本性は“割り(デバイド)”であると考えています。“割り”すなわち分断であります。一般に悪とは、調和と秩序を割って、分離したところに現れる表象、意識内容であります。それに対して善は分断されたものを秩序の中に位置づけ、結合せしめ、所をえせしめることにほかなりません。私はそのことをつねづね「分断は悪、結合は善」と表現しております。
 一個の人間において、思想と行動、理性と感性を統合・融合させて調和を保たせ、世代と世代、人間と人間の心を結びつけ、国家と国家の間に友好の絆を結び、人間と自然の調和のとれた文明を築いていく――これらを実現することができなければ、あなたの言われるように、人類はみずから滅びへの道を歩むほかないかもしれません。
 対立・闘争から相互依存・協調へと発想の転換を図る「新思考」を、たんに国家間だけの次元にとどめるのではなく、このように広い次元に広げていくならば、文明総体を新たに問い直す契機となると思います。そうすることによって、とかく分裂しがちな人間の心を融合させ、調和のとれた世界を築いていく流れを作っていくことが必要ではないかと思いますが、いかがでしょうか。
2  アイトマートフ たしかに私たちの多くは「頭と心が仲たがい」しています。私たちの内部の不調和は、現代社会を分裂させている外的不調和の反映です。
 あなたが挙げられたさまざまな矛盾に付け加えて、私は、現代人の無関心を挙げたいと思います。おしなべて現代人は、自分の国の過去の出来事をわがこととして受けとめたがりません。しかしそればかりではありません。
 ましてや世界史となると、まったくの他人事になってしまいます。どこかの見知らぬ民族の運命とか、消えた文明とかが、おれに何の関係があるのだ、と言わんばかりです。結構です。しかし、もしそうなら、あなたがどうなろうとほかの人には関係ない、ということになります。
 そういう人、あるいは民族はいつしか実在の「宇宙」から孤立して、限られた閉鎖的な時間と空間の中で俗物的な生活を送る運命をみずから担うことになるでしょう。それは、例えて言えば、何のために投獄されているかを知らない――正確に言えば、自分で自分を閉じ込めてしまった――囚人が味わうような、言いようのない、ひどく現実的な苦悩をともなうものです。
 現代の世界は非常に小さくなった、とよく言われます。そのことは以前は本能的に感じていただけでしたが、その後、私たちは宇宙飛行士から送られてくる映像によって、人類の揺籃の地である地球は、無限の宇宙空間に浮かぶ小さな小さな青い星にすぎないことを見て、そのことを実感するようになりました。
 同時に、私たちの世界観は世界が小さくなったのに反比例して拡大しました。つまり、これまで私たちは、自分たちが個々別々に生きていて、その気がなければ他人のことなど知らなくてもよい、意思の疎通などしなくてもよい、万一の場合には、いつものように、軍備とかイデオロギーとかの壁で自分の周りを囲ってしまえばいい、と思ってきたのですが、今やそのように暮らしつづけることは不可能だと理解したのです。
 ゆえに他者を受け入れるという新しい暮らし方が必要になりました。私たちにそれができるでしょうか? またその心構えはできているでしょうか。
3  池田 自分を通じて、私たちが皆同じだということがわかれば、他者への無関心や、意思の疎通など不必要とする態度がいかに誤っているかが、おのずと理解できるでしょう。しかも、今や時代はますますボーダーレスの様相を濃くしていっています。個人も、民族も、国家も、孤立し閉じこもっていては生きていくことは困難な状況になりつつあります。
 私は、つねづね「一人は万人に通ず」を信条に、行動しております。私の信奉する日蓮大聖人の御文に「一人を手本として一切衆生平等」(「三世諸仏総勘文教相廃立」)とあります。一個の生命を徹底して掘り下げるところに開けてくる「四海平等」「万人同胞」の透徹した平等観です。
 だれもが戦争のない平和な世の中を望み、家族が健康で幸福であるように願っているでしょうし、子どもの成長を喜び、人の死には悲しみをおぼえるでしょう。これが、社会的地位はもとより、民族・国家の相違などを超えた赤裸々な“一個の人間”の実相です。
 さらに言えば、いかなる人も、生まれ、老い、病み、死すべき存在であり、死を免れる人などだれもいません。
 どの人間も、それ自体で“一個の全体”であるところの生命なのです。一人の「一」ということについて考えるとき、私には、先に挙げた日蓮大聖人の御文とともに、エマーソンの「人間は部分として生活を営んでいるが、同時に人間の中にはあらゆる部分が平等の関係をもっている普遍の美、すなわち『永遠の一』(the eternal One)が流れている」(趣意)という言葉が浮かんできます。
 私は、人間が相対的にさまざまな差別に彩られながらも、その奥底に秘めている絶対的な平等の基盤を「内在的普遍」と呼び、これに目覚めることこそ人類連帯の機軸でなければならないと確信しています。人間は本来、分断されえない地球の仲間として、理解し合える共通性をもともともっているのです。
 分断されているとすれば、それは人工的な引き離しです。

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