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日蓮大聖人・池田大作

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核時代と人類の運命  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 一九四五年八月の広島・長崎への原爆投下をもって幕をあけた核時代は、戦争というものの様相を大きく変えてしまいました。
 一瞬にして人類のメガデス(大量死)をもたらす核兵器は、どちらかが相手を攻撃すると、報復攻撃を受けて双方とも壊滅状態におちいるため、一時は“使えない兵器”とさえ言われたこともありました。しかし、その後、小型化や命中精度の飛躍的向上など、技術の発達により、最初に相手の報復能力を奪う攻撃さえできるようになり、核兵器は“使える兵器”へと変わり、“先制核攻撃症候群”という言葉さえささやかれるようになったのです。
 しかし軍事技術は当然、攻撃・防戦の両面において研究・開発が進められているため、先制攻撃といっても、実際は核兵器による相互応酬の乱戦模様となるであろうことは、容易に想像できます。そうなったら、その影響は戦争当事国や周辺国家群はもとより全地球上にまでおよび、地球は死の惑星と化してしまうでしょう。まさに「核戦争に勝利者はいない」のです。
 しかも、恐るべきことは、そのような事態が起こりうる可能性が、現今の国際社会の中には皆無ではないということ、それどころかきわめて高いということです。万が一にも起こったならば、二度と取り返しがつかないにもかかわらず――。
 否、そればかりではありません。こうした核時代、核状況は、実際に戦争が行われないとしても、そこに生きる人々の心に暗い影を落とさないわけにはいきません。終末論的な予兆、刹那的な衝動、そして何よりも、正体のわからぬ無力感が、人々の精神をむしばんでいきます。また、それが現状をあきらめさせ、戦争を引き起こす下地を作っていく恐れさえあるのです。
 ここにおいては、もはや、戦争を「他の手段をもってする政治の延長」とするクラウゼビッツの定義は、通用しないと言っても過言ではないでしょう。まさに、今、人類は発想の転換を迫られているのです。あらゆるものが大いなる変化を遂げている現代、なかんずく核兵器という人間の想像を超えた破壊力を手にしながら、人類はその思考様式だけが旧態依然として、昔ながらのままであるというのが実情です。アインシュタインが「解放された原子力は、われわれの思考様式を除いて、一切のものを変えました」(O・ネーサン、H・ノーデン編『アインシュタイン平和書簡2』金子敏男訳、みすず書房)と言ったとおりです。
 その意味で、私は、貴国が「新思考」を掲げ、対立・闘争から相互依存・協調へと国際関係における新しい概念を採用したことを、高く評価したいと思います。アインシュタインの言葉と、ペレストロイカを貫いているこの「新思考」の志向するところとは、見事に呼応しているように思われます。
 そこで、いわゆる核時代、核状況についてあなたはどのような認識をおもちか、お聞かせください。
2  アイトマートフ そうですね。私たちの対談の長い道程の中で、いよいよ現代という時代がかかえる普遍的、かつ人間存在にかかわる本質的テーマを語り合うわけですね。
 すなわち人類は、核時代という新しい歴史的状況にあって、これからの生きるべき道を選択しなくてはならないのです。
 はたして、従来どおり戦争の神マルスを拝み、力を頼りに民族主義とか全体主義、階級闘争といった全能のイデオロギーのために闘って戦場に白骨をさらしつづけていくのか、それとも、万人にとって受け入れることが可能な平和で民主的な、そして人間の顔をもった発展の道を探ってみるべきか――この現在と未来にかかわる抜本的命題に解答を出すためには、これまで人類が蓄積した総体的経験の上に立って、自由、人道主義、民主主義を新たな価値基準に据え、種として生きのびるという明確な意志を多くの人々がもつようになることが必要です。
 ただし、はたして人類にそれができるでしょうか?
 あたかも、歴史という一寸先も見えない暗い密林から、文化と文明という光に導かれて、ようやく地球共同体に近づこうと必死の努力をするようなものです。抜け出すべき密林は、時代を下るにつれ深まる一方です。
 たとえば、国際連盟が存在した時代に、人々が真剣に討議したのは、大量殺戮兵器の使用禁止の問題でした。現代人がこれを聞いて思い浮かべるのは当然核兵器でしょう。ところが当時の人々が大量殺戮兵器として真剣に取り組んだのは、機関銃だったのです。機関銃ではもの足らず、今は核兵器に頭をかかえている人類です。
 「核時代」と私たちがおかれている状況のパラドックスは、疑いもなく、人類がまた新たな怪物を創り出して、それと闘っている、ということにあります。
3  こう考えてくると、もしや、それが歴史の法則であって、人間はその前にはまったく無力なのか、という想念がよぎります。そう、人間はわざと難題を作りだして、それを乗り越えることで一時は賢くなるものの、しばらくするとふたたび愚かに戻って、同じことを繰り返すように定められた存在なのか、と。
 私が言おうとしているのは、つまり、もし人間が本当にそういう定めをもっているとすれば、私たちの世界はまったく別の色彩を帯びてくるのです。なかんずく、私たちは、自分自身を、これまでとは根本的に違う人間観をもって見つめ直さなければならなくなってしまうのです。
 人類は、はたして「生」を望んでいるのだろうか――こんな疑問さえ浮かんできます。もし生きることを望んでいるのだとしたら、ではなぜ、人類を全滅の脅威にさらすという狂気の行動をみずからとるのでしょうか。まさか人類は何としても「原子の試練」を受けて、その煉獄を通過することで悲しみに鍛えられ、賢い人類に生まれ変わるべきだとでも言うのでしょうか?
 もしそれが宿命的な法則だと言うなら、一般に、ロシア人が言うように「畑を柵で囲むこと」に何の意味があるでしょう? 破滅の海の波に身をゆだねたほうがいいのではないでしょうか?
 ところで何が私にこのような考えを起こさせたのでしょうか? 哲学者の言葉を聞いたためではありません。ある一人の老婦人の言葉です。彼女は若者たちが羽目を外して狂気じみた行為をしているのを見て、「おまえたちは戦争でも経験すればいいんだ」と言ったのです。私はその時その不気味な言葉に衝撃を受けました。
 本当に、人間はまともになるためには、最も恐ろしいことを経験しなければならないのでしょうか?しかもそのようなことは人類の歴史に再三あったのです。それは、はしかのようなものだとでもいうのでしょうか? そんなことがいつまで繰り返されればよいのでしょうか? キルギス人は、このような避けられない運命を、天馬のたわむれのせいだと言います。はたして人類にはそのような「天馬」にクツワをはめる力が不足しているのでしょうか?
 クラウゼビッツ
 一七八〇年―一八三一年。プロイセンの軍人、軍事理論家。主著に『戦争論』。
 マルス
 ローマ神話の神。
 畑を柵で囲むこと
 ロシアでは無駄なことをする譬え。

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