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日蓮大聖人・池田大作

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ロシア革命観をめぐって  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 かつて歴史家のE・H・カーは「ロシア革命は、意図をもって計画され遂行された歴史上最初の大革命であった」(『ロシア革命の考察』南塚信吾訳、みすず書房)と言いました。
 イギリスの名誉革命の担い手であった政治家たちにしても、バスチーユの牢獄を攻撃してフランス革命の突破口を開いたフランスの大衆にしても、自分たちの行動を「革命」として意識したのでは決してなかった。みずからのやむにやまれぬ決起が大きな波動を呼び、結果的にそれが「革命」と呼ばれたわけであります。
 それらの“ブルジョア革命”に対し、ロシア革命は、明確な「意図」のもとで遂行されたものであった。「マルクス主義のレーニン的解釈は、効力というものを、もはや多数の諸個人の自然発生的な行動の産物としてではなく、意識的な政治的計画の産物として考える時代に属するものであった」(同前)とカーは言います。
 たしかに「革命的理論なしには革命的運動もありえない」(前掲『新版 レーニン選集①』)との有名なレーニンの言葉が語っているように、ロシア革命の性格の一面を言い当てていると言えましょう。「大衆―前衛」論にしても、プロレタリア独裁論にしても、国家死滅論にしても、ロシア革命が、あらかじめ用意された理論によって位置と方向を与えられたことは、事実であります。ただし、どこまでその「意図」が貫徹されたかは別問題ですが……。
 カーのこうした指摘の背景には、十八世紀、十九世紀を彩ってきた二つの観念によるところが多いと思われます。一つは「進歩」であり、もう一つは「理性」であります。
 大まかに言って、十九世紀においては、歴史は過去から未来へ進歩するものであるということ、したがって、人間の理性は啓蒙の光を当てれば当てるほど問題を解明する能力を増し、人間は歴史の主役になれるということ……そうした合理主義と楽観主義が主潮をなしていました。マルクス・レーニン主義も、その潮流の一つであるかぎり、ロシア革命の指導者たちに、みずから革命の主役たりうるという自負と楽観があっても不思議はなく、そこにカーが、明確な「意図」を読んでも当然なのであります。
 残念ながら、その後の歴史は「意図」どおりにはいきませんでした。先に見たように、階級の消滅は民族の平等化につながらず、国家は、死滅どころか肥大化しています。私はそこに、社会主義にかぎらず、人間への楽観的であるがゆえに底の浅い理解から発した進歩主義、合理主義の破綻が目についてならないのであります。
 ともあれ、ペレストロイカが第二の「革命」であるとするならば、カーの言った「意図をもって計画され遂行された歴史上最初の大革命」を復活させることも、ペレストロイカの狙いの一つであると思いますが、それには、何が必要であるとお考えですか。
 E・H・カー
 一八九二年―一九八二年。イギリスの国際政治学者、外交官。
 名誉革命
 カトリック国教化を図った王ジェームズ二世の専横に抗して、議会は新教徒の王を立て、その間ジェームズ二世は国外に逃亡。無血を評して名誉革命という。
 ブルジョア革命
 資本主義社会的自由にもとづく近代市民社会を実現した革命。
2  アイトマートフ 問題は、ロシア革命が「計画された」最初の革命であったということよりはむしろ、一般に歴史は計画することのできるものかどうか、ということにあると思います。たとえ、乱暴に言って、全人類を幸福にする、というような、この上ない高邁な目的をもったとしてもです。
 今仮に、私自身が革命家になったとして、私はどんな思考回路をたどるでしょうか。おそらく私はこう考えるでしょう。
 ――夢をいだき、理想を求めるのは人間として素晴らしいことだ! それも全人類を幸福にするための理想なのだから! ただし、歴史の発展には決まった法則がないというのがやっかいなんだ。いや、法則がないはずはない。よく考えれば、かならず法則は見つかる。ふむ……よし、これが歴史の発展法則にちがいない。ついに発見した。いや、待て。この法則で正しいのだろうか? だいじょうぶ、心配しても始まらない。それにあれこれ吟味している時間などないのだ。革命の時は迫っているのだから――。
 私は皮肉を言っているのではありません。当時の革命家たちは、「古い」世界を根底から破壊することが自分たちの使命だと誠実に信じて行動したにちがいないのです。
 ただその破壊の後のことまで熟慮できたのか、という疑問が依然として残ってしまいます。
 とは言っても、起こってしまったことを、後から云々するのは容易なものです。今なら、いかようにも批判できるものです。
 次のような問いかけすらたやすくできます。「革命をする必要があったのだろうか?」「一九一七年の革命がなかったら、どうなっていただろうか?」等々。
 しかし歴史は仮定法では存在しません。「進歩」に関して言えば、私が支持するのは「飛躍」でもなく、歴史の階級の数段の跳び越えでもありません。
 私が支持するのは「大進化」です――これは長編小説『われら』の作者であるロシアの作家エヴゲーニイ・ザミャーチンが使った表現だったと思います。
 ところで、有名な「コロコル(鐘)」紙の発行人(ゲルツェン)は、フランス革命について考察した思想家であり、文学者でした。彼の次の言葉は、現在でも意義を失っていないのみか、場合によってはより大きな意味をもつようになっているかもしれません。
 「人間の神聖な権利を回復し、自由を獲得しようとのフランス人の試みは、完全な人間的無力さを露呈した……。我々は何を目撃したのだろうか? 粗野な無政府主義的本能が解放されつつ、すべての社会関係を破壊して、動物的自己満足を味わっている……。しかし無政府状態を鎮め、政権をその手に固く握る力強い人間が出現するであろう」
 一方、ナポレオン自身は言いました。
 「革命を行ったものは何か? 名誉欲だ。革命を終わらせたものは何か? やはり名誉欲だ。我々にとって『自由』は群衆をだますためのかっこうの口実だった!」
 これはイワン・ブーニンの『呪われし日々』からの引用です。ブーニンはオデッサでの革命の直接の目撃者でした。
 エヴゲーニイ・ザミャーチン
 一八八四年―一九三七年。『われら』で共産主義を批判。
 イワン・ブーニン
 一八七〇年―一九五三年。ロシアの小説家、詩人。ロシア人初のノーベル文学賞受賞。
 オデッサでの革命
 オデッサは黒海に面するウクライナの都市。ここで、一九〇五年、ロシア革命に先立って、戦艦ポチョムキン号の反乱が起こった。
3  池田 しかし、ロシア革命を行った人々に関しては、「勇気も人格も申し分のない騎士」と呼ばれているのではないですか?
 アイトマートフ ええ、そうです。彼らはある意味では「騎士」だったのかもしれません。ただし、彼ら「騎士」につづいて、革命を行った民衆を脅かすために、血まみれのテロ機構を始動させる人でなしがやって来たのも事実です。そしてそのテロ機構はすべての人を食い尽くします。初めは「騎士」を、ついで民衆を、最後には死刑執行人さえも餌食にします。残念ながらそれが歴史の法則でした。
 したがって悪しき体制をくつがえすことは立派な行為ですが、しかしそれが成功するという保証がないかぎり、人間を材料にして実験を行うことになってしまいます。
 池田 処刑された「騎士」の一人であるブハーリンの最終弁論は、その悲劇性をのぞかせて、思わず胸をつかれます。
 「三か月の間私は黙秘し続けて来て、それから陳述し始めました。何故でしょうか? それは、監獄にいた間、私は自らの全過去の再評価をしたからです。何故なら、あなたが自問するとします、『もし死なねばならぬものなら、お前は何のために死のうとしているのか?』と。――するとその時、突然全き暗黒の虚空が驚くべき鮮烈さをもって、あなたの前に立ち現れます。死ぬ理由など何もありはしないのだ、もし人が懺悔せずに死ぬことを欲するのであれば」(ソ連邦司法人民委員部・トロツキー編著『ブハーリン裁判』鈴木英夫訳、鹿砦社)と。
 もとより、ブハーリンの「自白」はデッチ上げであるわけですが、それを拒否して「暗黒の虚空」にのみこまれる恐ろしさよりは、虚偽の「自白」を行うことによって「ソ連邦に輝き渡っている一切の積極的なるもの」(同前)に浸ったほうがよい。「これが、結局私をして完全に武装を解かしめ、党及び国家の前に跪かしめました」(同前)と。
 「騎士」ブハーリンにとって「党及び国家」は、それなくして一切が無に帰してしまい、己の生き死ぬ意味さえなくなってしまう絶対的存在、まさに宗教的意味合いをもっていました。
 そうした状況の中で、いかに多くの優れた革命家たちが、虚偽の“自白”に追い込まれていったか、イギリスの作家アーサー・ケストラーが『真昼の暗黒』で、じつに不気味に描き出した“疑似宗教”としてのイデオロギーの怖さがそこにあります。ブハーリンにしても、おそらく、冷めた“もう一つの眼”は、党や国家の無謬性や絶対性が神話にすぎないことを、見破っていたであろうにもかかわらず……。
 ところで「老ボルシェビキたち」は、刑場へ連れられて行くとき、彼らがどのように悲劇的な歴史的過ちを犯したかを理解しなかった、とあなたは考えていらっしゃるわけですか?
 ブハーリン
 一八八八年―一九三八年。旧ソ連の政治家。スターリンに粛清された。
 アーサー・ケストラー
 一九〇五年―八三年。『真昼の暗黒』はスターリン時代のソ連の政治、裁判の暗黒を描く。

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