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日蓮大聖人・池田大作

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対話の重要性について  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 ゴルバチョフ大統領は、テレビや新聞などのマスメディアを積極的に活用し、また、みずからも進んで民衆と接触し、対話を交わしておられる。そこには、グラスノスチを標榜するぺレストロイカにおける最大の武器は、人間と人間との対話である、との信念がうかがえます。
 会い、語る――ここにこそ人間が心を通わせ合い、互いの理解を深め合う要諦があります。顔の見える対話は、無用な先入観や疑心を払拭し、安心と確実性の感触をもたらします。そして、誤った固定観念を打ち破り、生き生きとした人格のふれあいや触発を誘発します。私がこれまで幾度か平和のための首脳会談の開催を提案し、対話の重要性を強調してきたのも、こういった対話の効用を信ずるからであります。
 ソクラテスがみずからの哲学を、対話によって当時の青年たちに説き、またイエスが、仏陀が、孔子が、対話によって教えをひろめていったことはよく知られています。彼らの所説も多く対話形式で記録され、今日まで伝えられています。私どもの信奉する日蓮大聖人も対話をとおして、広く民衆の中に仏法信仰の火をともしていかれました。そして当時の為政者を諌暁するために「立正安国論」をしたためられましたが、それは全編対話の形式で著されています。
 また、私ども創価学会の歩みにおいても、一九三〇年の発足以来、一人一人との対話を最も重視し、その積み重ねの上に、今日、百十五カ国におよぶSGI(創価学会インタナショナル)の発展の歴史が築かれてきたのです。日本に「急がば回れ」という諺がありますが、対話は迂遠なように見えて最も着実で、かつ、確実な道なのです。対話こそ平和への王道であると、私は確信しています。
 我々の共通の知人ノーマン・カズンズ氏は語っております。「誰でも死を恐れなくてもいい。ただ一つ恐れなくてはならないのは、自分の持つ最大の力を知らずに死ぬことである。それは自分の命を他人のために捧げる自由意志の力である。我々の力で他人の内部の何かが蘇えったら、その時我々は不死に近づいたのである」(『人間の選択 自伝的覚え書き』松田銑訳、角川書店)と。まことに美しい言葉であり、同感であります。
 私が世界を駆け、ソ連をはじめ多くの国々の指導者や有識の人々と対話を重ねているのも、その確信に立ってのことであり、人間の心と心のネットワークを広げるには対話しかないという信念からです。対話の放棄は人間としての敗北であるとさえ私は思っていますが、対話についてのあなたのお考えをお聞かせください。
2  アイトマートフ 対話ということについては、主として自分の体験や見たり聞いたりしたことを出発点にして、意見を述べてみたいと思います。
 対話はキルギス語では「顔を覆わずに真実の言葉をもってする会話」と言い、庶民の生活では争い事の解決、または、即興詩人兼歌手たちの競演の場で重要な役割を果たしています。
 一般に、対話は、人間と周囲の世界との結びつきの最も普遍的な形式です。対話というこの生き生きした意見のやりとりには、そのすべての参加者によって守られなければならない、一つの必須の条件があると思います。それは相手の話に耳をかたむけて、忍耐と尊敬と思いやりを発揮し、相互の利益のために歩み寄ることです。
 しかしながら、私ははなはだしくモノローグ(独白、独演劇)的な社会環境で育ちました。対話の政治はソ連の現実には縁なきものでした。一本調子の原則論的なモノローグが、ことにイデオロギーの問題、社会政治的な討議、プロレタリア的スローガン、宣伝のきまり文句に関する場合には、権力によって、権力の利益のために公然と明確に植えつけられてきました。その意味で対話は虐待されていました。
 社会的対話、自由な言葉、公然とした意見の交換からくる多幸感は、ペレストロイカの精神的開花を象徴するものですが、しかし、やはり何事につけ、バランスが必要です。
 それが度を越したためか、対話の文化が時には対話もどきのものの流行によってすり替えられています。さまざまなシンポジウム、円卓会議、セミナー、衛星放送を利用しての長距離テレビ討論、等々は、今日、こう言ってさしつかえなければ、海の「産卵」さながらの大騒ぎ、あわただしさです。だれもができるだけ多く自分の意見を言い、できるだけ多く「言語」空間を満たそうとしています。
 その現実は現実として、私は、この流行病のような対話も、いずれかならずや成熟した対話の文化へと昇華されていくものと信じています。そして、それこそが言論の自由がもたらす真の成果となるでしょう。
 さて、この問題をグローバルな視点に置き換えてみると、世界文明の二大潮流である東洋と西洋との「対話」が活発化してきていると私は見ております。東洋と西洋の融合、つまり弁証法的に一つになることは、宇宙の主体であるところの「生命」の調和を意味すると受けとめてよいでしょう。
 西洋は、主として自己の外に存在する神の探求に従事する力として登場し、そのことが外的世界の認識において大きな成果を上げることになったのに対し、東洋はつねに心の内面の神の探求に沈潜し、そのことが人間自身の内なる宇宙を認識するうえで独特な成果を上げる要因になっています。
 この二つの源流の出合いは世界文化の最高の対話と見なすことができます。
3  池田 あなたのおっしゃるように、西洋では、世界を支配している隠された神の意思を忖度することから発して、自然法則の発見、自然の仕組みの探求という成果をもたらし、それが科学の発達へと道を開いてきました。発見を意味する英語の「discover」が「dis」(取り去る)と「cover」(覆い)の合わさった言葉であるのは、そのことを物語っていま
 しょう。また自分たちの住む世界とは異質な世界として、東洋を認識してきました。
 そして東洋では、人間の内的世界と外なる宇宙をともに貫き、支配している根源として「法(ダルマ)」あるいは「道(タオ)」なるものを見いだしています。
 つまり西洋では世界を対象化することによって認識しようとしたのに対して、東洋では世界と合一することによって真理を体得しようとしたのです。世界を対象化する武器は言葉です。言葉によって世界の部分を切り取って一つの概念に組み立て、それらをふたたびつなぎ合わせて世界を再構成するのです。しかし東洋では世界と合一しようとする行為の中に世界の全体を直観しようとします。
 この両洋の文化は、互いに排斥し合うよりも、弁証法的に統一されるのが望ましいのです。東西の対話によってこそ“地球的文明”構築への地平が望まれるからです。
 現代は“地球的文明”がユートピアや空想的スローガンではなく、現実の問題として我々の視野に入ってきた時代です。私も一九八九年六月、フランス学士院での「東西における芸術と精神性」と題する講演を「地球文明の/はるかなる地平へ――」という一節で結びました。
 こうした地球文明の萌芽とも言うべきものを濃厚に体現していたスケールの人として、ゲーテが挙げられますね。『ファウスト』(大山定一訳、『筑摩世界文学大系24 ゲーテⅠ』所収、筑摩書房)の中で、聖書の「太初に言葉ありき」をそのまま翻訳したのでは、どうしてもしっくりいかず「こころありき」「力ありき」と試みたあげく「はじめに行いありき」としてようやく納得するというくだりがあります。こうした大操作は、西洋文明の言葉(ロゴス)中心主義的性格を、もう一歩超えようとするゲーテの志向性をはっきり示しております。

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