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日蓮大聖人・池田大作

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世論・民衆の力  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 ソ連社会の新しい動きを象徴するものとして、北方・シベリアの河川転流計画の中止が挙げられます。この計画は北極海に注いでいる河川を中央アジア、および南部ロシアの地方に転流させようというものでした。砂漠化の進む中央アジアの大地を、転流水によって潅漑し、土地改良しようというもので、凶作を防ぎ、農業生産を増大することを骨子としたこの計画は、大規模な自然改造をめざしたものでした。
 しかし、この計画は、また一方で、シベリア、北方の環境・生態系を破壊する恐れがきわめて強いものでした。それだけに、推進・反対両派から賛否両論が渦巻き、多くの作家、学者、マスコミ関係者らが論争に参加しました。
 河川転流計画反対の旗手ラスプーチンは、この計画について「犯罪的にも、北方、中部ロシアの土地と文化に悲劇的影響をあたえるだろう」(下斗米伸夫『ゴルバチョフの時代』岩波新書)と述べ、つづいて、あなたの故郷キルギスをはじめ、カザフ、アルメニア等々にも、その影響がおよんでいくであろうと訴えたといいます。
 最終的に、この計画は一九八六年八月十五日、政治局が中止することを認めましたが、その決定が「世論」の力によるものであることも明らかにされました。このことは、官庁のもつ保守的な力に対し、世論すなわち知識人を含めて民衆の声が、徐々に政治や社会を動かす力をもち始めていることを示しています。これこそペレストロイカのもたらした刮目すべき現象であると思われます。
 あなたはその著作において、人間の傲慢が自然のエコシステムを破壊していくことの怖さを訴えていますが、河川転流計画を中止させた世論・民衆の力、およびラスプーチンの指摘を、どうお考えになりますか?
2  アイトマートフ 歴史の視点を欠いてこの問題を考えると、いきおい軽率な結論を出しかねませんし、悪くすれば皮相的な修辞句で終わってしまうでしょう。少なくとも、具体例だけに目を向けたのでは、明らかに不十分です。要するに、意ならずも、いつものおめでたい幻想の犠牲になりかねません。権力が「賢くなった」という現代的な神話の作り手になりかねません。
 その権力たるや、つい最近まで民衆の意見に耳を貸さなかったばかりか、不文律にもとづいて、民衆の名において好き勝手なことを行い、さらに民衆に対しては、立場をわきまえて、指導者の行うことをすべて全面的に支持することを要求していたのでした。
 それは昨日始まったことではありません。十月革命からですらありません。十月革命は民主主義に終止符を打ちました。そのことは、たとえば、疑いえない権威をもつ次のような文書が証明しています。それは一九二四年四月二十日の「プラウダ」に載ったトロツキーの次のような証言です。
 「――レーニンは憲法制定会議の解散に関して私に次のように言ったことがある。『もちろん、我々が招集を延期しなかったことは、我々にとって非常に危険なことであり、非常に、非常に軽率であった。しかし結果的にはうまくいった。ソビエト政権による憲法制定会議の解散は、革命的独裁のための形式的民主主義の完全かつ公然たる廃止である。今や教訓はゆるぎないものとなろう』」
 ところで、そんな権力奪取の教訓であれば、例を挙げるのには事欠きません。「物言わぬ民衆」をよいことに権力をめぐって狂奔する輩たち――プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』の場面を思い起こしてみてください。
 あるいは逆に、権力者に「嵐のような拍手と歓呼」を送る民衆――過去から比較的最近までのソ連共産党大会の速記録を一読すればわかることです。
 とはいえ、いかなる民衆であれ永遠に何かに服従する存在として見下せるものでは決してありません。たとえ歴史のある一時期に、いずれかの民衆が、麻酔をかけられたように判断力を奪われたり、恐怖に声を失ったりすることがあっても、また、その状態がどんなに永くつづいていても、その民衆を軽んずることはしてはなりません。なぜなら、それは永遠にはつづかないからです。
 その意味で、すでに話し合ったとおり、ペレストロイカは、上層部の意志が働いたのもそうですが、それ以上に民衆の「意志」の結果だったことは疑う余地がありません。民衆の中に、長い間非人間的体制によって踏みにじられていた民族的尊厳や自尊心が目覚めつつあります。
 今日、民衆はもはや黙ってはいません。
3  池田 何にもまして、そのことをまざまざと見せつけたのが、「世界を揺るがした三日間」と言われた今回のクーデターでしたね。いわゆる“八人組”に代表されるクーデター派は、軍、KGB、内務省といった強面のハード・パワーで脅しつければ、民衆を思いのままに操ることができるという、旧態依然たる思考の持ち主であったにちがいない。あなたの言う、ロシア民族固有の“強い手”へのひそかな願望……。
 「民衆の大地に根差して」の項で、日本の作家・芥川龍之介のレーニン評「誰よりも民衆を愛した君は/誰よりも民衆を軽蔑した君だ」(前掲『芥川龍之介全集6』)に言及しましたが、同じことをソ連の作家グロースマンは「レーニンの勝利は、彼の敗北となった」(『万物は流転する…』中田甫訳、『現代ロシヤ抵抗文集6』勁草書房)と評しております。
 いうまでもなく、レーニンの「勝利」とはロシア革命の成功であり、「敗北」とは、今回のクーデター騒ぎで民衆パワーの哀れな引き立て役を演じた軍、KGB、内務省の創設が、ほかならぬレーニンによって成されたことを意味しております。換言すれば、その「敗北」とは、千年にわたる歴史の中でロシアの魂にしみ込んでしまった奴隷根性の「勝利」にほかならない、奴隷根性が強権政治を誘引したのである――と。そして、グロースマンは述べています。「ロシヤ人の魂が自由になるのは一体何時のことであろう?
 あるいは、それは来ることはないのかも知れない。永遠に訪れることはないのかも知れない」(同前)と。
 まことに陰鬱な告白ですが、その意味からも、今回のクーデターをあえなく挫折に追い込んだ民衆パワーの台頭は、ロシア史に画期的な意味をもっていると言えましょう。グラスノスチによる知識や情報の普及、社会のいろいろな側面のデモクラチザーチヤ(民主化)は、大方の予想を超えた変化を、ソ連の社会や民衆におよぼしているようです。
 一部では、今回のクーデターによって、ゴルバチョフ時代が終焉を告げたかのような論評がなされていますが、いささか近視眼的にすぎます。
 クーデターの敗北は、まぎれもなくゴルバチョフ大統領の手で開始されたペレストロイカの勝利であり、もし、ゴルバチョフ政権の崩壊に執着するのなら、グロースマン流に「ゴルバチョフの敗北は、ゴルバチョフの勝利となった」と言うべきです。レーニンと、ちょうど反対の意味での逆説的結果がもたらされたわけです。
 事態は流動的で、まだまだ楽観は許されませんが、歴史の流れを決定づける要因としての民衆パワーの台頭が、今後も、健全な方向へと発展し、成熟していくことを祈ってやみません。
 トロツキー
 一八七九年―一九四〇年。ロシアの革命家。スターリンと対立して敗れ、暗殺された。

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