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日蓮大聖人・池田大作

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言葉への信は人間への信  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

前後
1  池田 先にふれたことにも関連しますが、米国のソ連問題専門家であるステファン・コーエン教授(プリンストン大学)は、ゴルバチョフ大統領の資質を「言葉の力を信じる」という点に見いだした、と語っています。古来、言葉をもつということが、人間としての最大の要件とされてきましたが、その点にも、ペレストロイカの機軸に「人間」が据えられていることの意味があるように思います。
 ところで、プラトンは『パイドン』の中で、“ある一つの心の情態(病)”として「言論嫌い」ということを挙げ、次のように記しています。「言論嫌い(ミソロゴス)にならないようにしよう、ということだ。(中略)ちょうどひとが人間嫌い(ミサントローポス)になるというのと、同じような意味でね。なぜなら、およそ人の心がおちいる状態で、この、言論を忌み嫌うということほど、不幸なものはありえないのだから。言論を嫌うことと人間を嫌うこと、この二つの状態は同じような仕方でやってくる」(田中美知太郎訳、『筑摩世界文学体系3 プラトン』所収、筑摩書房)
 「言論嫌い」は「人間嫌い」――まことに鋭い哲人の指摘であります。暴力の行使に含意されるものが言論の封殺と、相手の人間性の否定であること、また官僚制の弊害としてしばしば指摘されるのが、対話による相互理解の欠如と、血の通わない機械的対応であること等を思えば、なるほどそのとおりであると思わざるをえません。
2  歴史を振り返ってみても、時代の大きな転換期には、言論運動の大きな盛り上がりがありました。アメリカ革命しかり、フランス革命しかり、そしてロシア革命しかりであります。
 とくに、ロシア革命については、米国のジャーナリスト、ジョン・リードが著したルポルタージュ『世界を揺るがした十日間』の中で、その様子が生き生きと紹介されています。たとえば「スモーリヌイ学院帝政時代の貴族女学校でソヴェートの本部がここにあった。だけからでも、最初の六カ月間に、何トン、何車、何貨車、という文書が毎日でていって国土に浸みこんだ。熱砂が水を吸うように、ロシヤは読み物を吸収して、飽くところがなかった」(原光雄訳、岩波文庫)という具合に、大量の新聞、パンフレット類が配布され、学術書、文学書などが競って読まれる様子が描写され、また、いたるところで演説が洪水のごとくあふれていたことがつづられています。
 このように、言論の隆盛が変革の原動力となるのは、決して過去だけのことではありません。今ぺレストロイカが進むソ連において、マスコミ界が“評論の火山”と言われているのも、ゆえなきことではありません。
 それはまさに、なによりも民衆を信じ、人間を信じ、その可能性を開いていくための大きな力となるでしょう。
 私は、ゴルバチョフ大統領の「言葉の力を信じる」という資質は、とりもなおさず「人間を信じる」ということであると思っています。人間嫌いの巨大な沈黙の空間にかわって、グラスノスチにともなう言論の沸騰の中においてしかぺレストロイカは進まない、また、そこにぺレストロイカの本義があると思うのですが、いかがでしょうか。
3  アイトマートフ 私たちの出会いがペレストロイカ以前であったら、言葉への信頼と人間への信頼をテーマに話し合うことへの誘いは私にとって辛くもあれば、同時に望ましくもある出来事になっていたでしょう。
 それはあたかも、鉄格子の中にいる囚人が外からやって来た人と自由の問題について話し合う機会に恵まれた場合になぞらえることができるでしょう。いずれにしろ、胸の内を打ち明けて、私の人生に降りかかった歴史を嘆き、腹を立てることになったと思います。
 たしかに、言葉と命が等価であったその時代に、私の側からの反応はまさにそのようなものであったでしょう。そして、そのことは別に驚くべきことではないと思います。なぜならば、言葉は強力な手段であると同時に、同じ程度において脆い、空しいものだからです。
 しかし、そこにおいて、罪は「疎外された主体」としての言葉にあるのではありません。言葉がどのような運命にあるのか、ということに対して罪があるのは、またもや私たち自身であり、人間です。
 言葉に対する現代人の信頼は、社会の道徳的、政治的状態を示す指標の一つです。その意味でわが国でよく使われる「言葉は行為に縫いつけられない」という慣用句は非常に特徴的です。言葉が何の価値ももっていないということは、つまり、人間がそもそも個性として、自分の発言の保証人として、無価値だということです。

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